−長崎之旅

唐人屋敷経由
12月22日(日曜日)


…。朝になっているようだ。少し前にモーニングコールが鳴っていたが、いつも
のように止めてしまった。
8時になっている。そろそろ起きよう。いつものこと
だがなかなか起きることができない。旅行先になると、きまって朝がゆっくりに
なってしまう。どうにか服装を整えて、ガイドブックを片手に朝ごはんを食べに
行く。
2階のカフェレストランで食べるつもりをしていたのだが、満席というこ
とで南側の宴会場へ案内された。広い宴会場にいくつかの大型丸テーブルが並ん
でいる。ただ、ちょっとこのような対応はどうかなと思った。メニューの味は悪
くない。スタッフの応対も丁寧である。でも、やはりこのスタイルは、少なくと
も全日空ホテルのシティホテルとしては良くない。できれば自分だけのスペース
を取れるテーブルで、外の景色を見たり新聞を読んだりしながらゆっくりと朝ご
はんにしたい。宿泊客が多すぎてレストランのテーブルが追いつかないのであれ
ば、他のレストランも利用できるようにするか、前もって個別の希望を宿泊客に
尋ねておくか、あるいはルームサービスで利用できるようにするか、もっと気の
利いた良い方法を考えておくべきである。いわゆる一流ホテルというところに泊
まって、このような朝食に出くわしたことはなかった。全体的に良い印象のホテ
ルなのだから、このことだけがとても残念に思える。とりあえず宴会場で朝ごは
んを食べながらガイドブックをさっと流して早く出かけることにした。   ★



大浦川

デジカメの充電は十分にできている。12日ぐらいが多い普通の国内旅行にあっ
て、今回は
23日、そして滞在時間を最大限取れるようにした。今日は1日じっ
くりと観てまわれる。ホテルを出て今日歩く道を思いながら歩いて行く。まず始
めに東山手の旧外国人居留地を歩いて、そこから昔の唐人屋敷へ抜けようと思っ
ている。全体的な町のイメージがまだはっきりしないのでその先のことはまだよ
くわからない。昨日歩いた孔子廟近くからもうひとつ向こうの通りまで歩いて左
に曲がる。なんでもない普通の道である。寿司割烹の店があったりして外国人居
留地の雰囲気なんてまったくない。と思って歩いていると、突然右側に急な上り
坂が現れた。                             ★



上り坂

この場所を少し上ると「オランダ坂」と彫られた石柱が立っていた。ああここが
有名なオランダ坂なんだ。よく長崎の観光案内かなんかで見たことがあった。旧
外国人居留地の象徴のような場所である。
9時半を過ぎたオランダ坂はまだとて
も静かで、その石柱のある所を左に入ると古い洋館群へ続いている。この洋館群
は東山手洋風住宅群という。当時は外国人用の賃貸アパートとして使われていた
らしい。そのうちのひとつへ入ると長崎開港の頃の古写真がたくさん飾られてい
た。また港の方向に目をやると、この少し小高くなった洋館の場所から坂を降り
た先にあるような港が見えている。今はもう建物でうめ尽くされてしまい、所々
に立つ高層建築が港までの視線をさえぎっているが、古写真の様子から想像する
とここから長崎の港が広く見渡せたはずである。当時の建築技術がすでに相当高
いレベルにあったのだろう、この洋館群はいくつかの苦難を経験しながらもこの
場所を動かなかった。一段低い場所に孔子廟の黄色い屋根が見えている。西洋と
中華が同居する不思議な場所でもある。洋館群の路地を通り抜けてオランダ坂へ
戻り、坂の上を目指す。                        ★



オランダ坂



 
東山手洋風住宅群

もうひとつ小高い場所を歩いている。さっきの洋館でもらった案内図によると、
このあたりはもともと領事館の丘と呼ばれていた場所である。その後は領事館の
跡地にミッション系の学校が増えて現在に至っている。また、ある種の生活感を
残している。長崎の旧外国人居留地はこんな雰囲気なのだろうか。病院、学校、
教会、特にこのあたりはそういった文教的な匂いを漂わせていた。     ★



領事館の丘

道が少し広くなった場所に出てきた。下りの道を選べばオランダ坂が続いていく
。上りの道を選べば東山手の旧外国人居留地を出て、そして民家の中を抜けて昔
の唐人屋敷の方へつながっている。今は考えていたルートに従って上りの道を選
んだ。少し歩いただけで賃貸駐車場があって、ベランダに干された洗濯物がある
。急に日常生活へ引き戻されたような、そんな不思議な感覚である。人ひとりだ
けが通れるような路地裏の階段を降りていく。こんなところにも昔の記憶を時々
見つけることができて、このあたりは誰々が住んだところであるとか、そういっ
た類の教育的説明文が目に入った。                   ★



分かれ道

降りきった所は突然の商店街だった。前には地元の十八銀行のATMコーナーがあ
る。寿司屋の角を曲がって館内市場へ歩いて行く。このあたりはちょうど新地中
華街から山手に少し入った場所になる。現在この一帯は館内町という町名に分類
されていて、その名前の由来はこのあたりが昔の唐人屋敷の範囲になるからとい
うことである。さあこれからその館内町へ入っていくわけだが、先に唐人屋敷と
長崎の中国人について整理しておいたほうがいいだろう。一般的に江戸時代の鎖
国時代に唯一の外国貿易といえば長崎のオランダ貿易を思い出す。もちろん様々
な西洋の文物をその香りとともに日本にもたらしたことは確かである。華があっ
て異国の地への憧れがあった。ただ、その一方で長崎を拠点にした唐人貿易が栄
えたことも記憶しておかなければならない。実は貿易の規模としてはオランダ貿
易を
2倍以上も上まわるものであり、東アジア貿易圏の一部として長崎が存在し
たことはとても意義のあることだった。オランダ貿易をはじめとするヨーロッパ
貿易がキリスト教の布教や政府の関わりとに関係があったということに対して、
中国をはじめとする東アジア貿易は当時の海賊勢力の活動などから進展したもの
であった。他にも薩摩藩の琉球貿易や、同じく薩摩藩の唐人密貿易、さらに対馬
藩の朝鮮貿易などもまた東アジア貿易圏の一部を形成していたのである。江戸幕
府が外国貿易統制政策を強化するようになると、以前から九州へ来航していた唐
人船はその寄港地を長崎一港に限定されることになった。また、オランダ人が長
崎での居住を出島に限定されたように、唐人に対してもまたその居住地を制限す
る政策が実行され、もともと薬草園であったこの場所に塀をめぐらせて唐人屋敷
としたのであった。当時、現在の新地中華街が積荷の保管集積場として設けられ
、船を降りた唐人は全員が唐人屋敷へ入るということに決められていた。ある推
計によれば、江戸時代中期の長崎の総人口が約
60,000人であったところに、その
うち唐人が
10,000人近くも占めていたという。近世長崎の形成に与えた唐人・唐
人文化の影響は無視できないものである。やがて長崎が開港されると同時に唐人
の居住地制限は解かれ、その後は唐人屋敷もかつての賑わいを失っていく。そし
て現在まで残った唐人屋敷の一部が、今の館内町というわけである。    ★


いくつか商店が並んでいる所を過ぎると小さな門が見えた。そしてその門の内側
から軒反りのある屋根が見えている。一目見て日本のものとは違うことがわかる
。その小さな門の前に立つと、傍らには唐人屋敷についての説明が書かれている
。中へ入ってみる。ここは土神堂という建物で、土神を祀ると同時に屋敷内での
踊りの舞台にもなった場所である。元禄
4年(1691年)9月、土神の石殿を建立
したいという唐人船の船頭たちの願いで創立されたといわれる。決して大きな建
物ではないが、中国のお寺によく見るような雰囲気があって、当時の唐人の生活
が偲ばれる。建物の中へ入ると小さな土神が奥の一座からこっちを見ていた。ま
た、当時の唐人船の絵写真が飾られていて。それは廣東船や厦門船など長崎へ頻
繁に来航していたものだった。静かな土神堂の柱の感触を確かめて外へ出た。★






 
土神堂

次はすぐ近いところにある福建会館へ歩く。交通標識のような小さな案内板だけ
が出ている。小さな階段を上がると正門がある。見たところこれは和風の造りで
、少しだけ中国風の要素も含んでいるようだ。正門から中へ入ると天后堂がどっ
しりとそこにあった。この福建会館自体の歴史は比較的新しくて、明治元年(
18
68
年)に福建省泉州出身者によって八門会所が創設されたことに始まり、その後
の改築で福建会館と改称された。しかし会館本館の建物は原爆で倒壊したため、
正門と天后堂のみが現存している。この天后堂は純中国風の建物で、内部の装飾
なども中国南方でよく見るものとそっくりである。柱に彫られた対聯を見ると中
国の空気を強く感じた。唐人貿易の時代から長崎へ来航した唐人の多くが福建人
であったということで、長崎開港後もたくさんの福建人が長崎を拠点に活動して
いたのである。革命の父・孫文が日本を訪れたときにこの福建会館にも立ち寄っ
たということで、当時の記念写真や文書といったものがたくさん展示されている
。天后堂の前には孫文像も建てられていた。長崎から孫文の活動を支援した華僑
や日本人は少なくなかったということで、長崎は中華民國の歩みに直接関わって
いたわけである。廣州の中山紀念堂や台北の国父紀念館を思い出した。長崎の孫
文像は周りの住宅の陰に隠れるようにひっそりとあるが、それがかえって長崎と
中国との関係の深さを物語っているようにも思える。そしてその系譜は長い期間
に渡って長崎に根付いた唐人文化によるところが大きい。そのようなことを思い
ながら福建会館を後にした。                      ★




 


福建会館

まったくの住宅街になった坂道を上がっていく。ガイドブックで知るところでは
このあたりに観音堂があるはずである。路地を左に入ってつき当たりまでいくと
古びた石門があった。中へ入ると幼稚園の運動場になっていて、その片隅に中国
風の建物がある。やや傷みが目立つこの建物が観音堂だろう。観世音菩薩と関帝
を祀る場所として元文
2年(1737年)に建てられたという。それほど見るところ
はないが、唐人屋敷時代からの古い様式を残した貴重な建物らしい。この幼稚園
に通う子供たちの想い出になるだろうか。路地から通りへ戻った。     ★



観音堂

館内町に残っている唐人屋敷の建物はあとひとつである。通りをはさんで反対側
にある天后堂にやって来た。元文元年(
1736年)に江蘇省南京地方の唐人たち
が航海の安全を祈願して天后聖母を祀ったのが起源と言われている。いわゆる媽
姐を祀る場所で、台北淡水で見た福佑宮と同じものである。ちょうど長崎市教育
委員会が修復作業を行っているところだった。              ★



天后堂

往時の唐人屋敷は5,000人から10,000人もの唐人が常住する巨大な空間であり、
その内部はまったくの中華世界になっていたわけだが、今となっては館内町とい
う町名にその範囲を知らせるだけで、当時からの建物は今日訪ねた場所以外には
何も残っていない。長崎が開港されると欧米人とともにやって来る新しい中国人
が増加し、その活動の中心は外国人居留地の方へ移っていった。ただ、そうであ
っても、ここには唐人たちの足跡が確かに残されている。『台北之旅』から『長
崎之旅』へ。『南西之旅』をめぐるいくつかの風景が重なって見えた。   ★



境界線

とりあえず今日の歩き方はここまでしか考えていない。11時半を過ぎて午前の部
が終了といったところだ。ガイドブックの地図を眺めながらこれからのルートを
考えている。知らない町なのでほんとによくわからない。お昼ごはんは少し遅ら
せることにして、長崎にある唐寺を歩くことにした。南西の町を見つけたいとい
う気持ちがある。館内町を出て思案橋へ通じる通りに出た。思案橋というところ
は長崎の歓楽街でそういったお店が道の両側にずらりと並んでいる。昼前なので
どの店も閉まったままである。昼と夜が逆になった通りだから今はまだ真夜中で
ある。カステラの福砂屋の前から江戸時代から続く花街を通って行く。昼間はほ
んとに静かな街である。この花街にも実はいろいろな物語があって、花街の遊女
だけは唐人屋敷への出入りが許されていた。花街から寺町の方向へ行くところに
丸山オランダ坂という通り抜けがある。伝え聞くところによると、オランダ坂の
名前が付けられたのはこの小さな通り抜けが初めてということだ。遊女たちがオ
ランダ商館へ通った道としてそう呼ばれたらしい。丸山オランダ坂を下って路面
電車が走る大きな通りに出て来た。ひとつ目の唐寺、崇福寺はこの通りを渡って
少ししたところにある。                        ★


 
丸山オランダ坂

ゆるやかな坂道を上るとお寺の門があった。お寺…、ではあるが普通のお寺と趣
きが違う。聖寿山崇福寺(黄檗宗)という。三門をくぐって中へ入った。寛永
6
年(
1629年)に渡来した唐僧超然が寛永9年(1632)に創建したもので、檀家
に福建省福州出身の人が多いことから福州寺とも呼ばれている。この三門は日本
人工匠の手になるものだが、中国の様式を学んで建てたものである。階段を上っ
ていくと第一峰門があって、これもまた四手先三葉拱と呼ばれる中国式の組物で
日本には他に例がない。中国浙江省寧波で切り組んだものを唐人船数隻で運んだ
という。そして第一峰門をくぐるとお寺の伽藍になっている。大きな大雄宝殿が
あって、この呼び名からしてここが中国寺であることがわかる。釈迦のことを中
国語で大雄という。殿堂内の仏像仏具類はどれも中国人名匠の手によるもので、
明朝末期文化の縮図ともいえるものである。また、大雄宝殿と第一峰門は国宝に
指定されており、特に貴重な文化財として取り扱われている。仏像に加えて媽姐
や関帝が祀られていることが長崎唐寺の特徴である。柱には対聯が彫られ、燈籠
の飾り付けが中国風情を漂わせる。日本にこのようなお寺があることを初めて知
った。孔子廟で感じたことが確信に変わってくる。やはり長崎には中国文化の深
い脈があるに違いない。とても静かである。それほど観光地化していないところ
がまた良い。商業主義に傾いてはこの唐寺風情が味気ないものになってしまうこ
とだろう。長崎唐人文化に対する関心が強まってきている。南西の海路を繋ぐ何
かが見つかるのだろうか。崇福寺を出てさらに歩き始めた。        ★




 

 
崇福寺

ちょうど崇福寺あたりを一端としてこのあたりはずっとお寺が並ぶ寺町である。
そのほとんどが日本の宗派の普通のお寺で、その中にまじっていくつかの唐寺が
ある。ガイドブックの地図を確認しながらこれから興福寺に向かう。お墓参りの
お花や線香を売っている店が多い。いたって普通の、長崎市民にとっての寺町で
ある。興福寺に向かっているところでちょうど眼鏡橋という文字が目に入った。
100mのところにある。眼鏡橋は後から行こうと思っていたが、ここで寄って
おいてもよさそうなので先に見ておくことにした。            ★


市内を流れる中島川の上から見る。このあたりは整然と再区画されていて眼鏡橋
公園とでもいえそうな感じである。ああ、あれが有名な眼鏡橋なのか。よくテレ
ビに映ったり、雑誌に載ったりしている姿があった。寛永
11年(1634年)、中
国江西省から来た興福寺の黙子如定禅師が造った日本初のアーチ式石橋である。
日本橋、錦帯橋と並んで日本
3名橋に数えられている。水面に遊ぶ水鳥たちも麗
しく、デジカメのシャッターを押しつづけた。元の道に戻って興福寺へ行こう。



眼鏡橋

寺町に戻るともうそこが東明山興福寺(黄檗宗)だった。大きな朱塗りの門を入
って伽藍へ上がる。元和
6年(1620年)に渡来した中国江西省の唐僧真円によっ
て開基された日本最古の黄檗宗寺院で、初め媽姐堂として建立され、元禄
2年(1
689
年)に大雄宝殿が建てられた。崇福寺が福州人中心の場所であったのに対し
て、ここ興福寺は三江(江南・浙江・江西)地方出身者の菩提寺であり、南京寺
と呼ばれた同郷会館でもあった。中国南方建築の大雄宝殿を中心にして、三江会
所門、媽姐堂、鐘鼓楼、中島聖堂大学門、旧唐人屋敷門など、長崎の唐人文化を
代表する貴重な文化財が集まっている。資材を中国から取り寄せたものも多く、
明清朝文化の特徴を随所に見ることができる。ぼくの他に欧米系の旅行者が見に
来ていた。それにしても当時の唐人がこれだけの寺院を持っていたことに驚かさ
れる。このままそっくり中国へ持っていったとしても決して見劣りしないお寺に
なると思う。寧波船や南京船がたどった海の道を思う。南京で見た長江にかつて
の南京船の灯りがあったのかもしれない。                ★




 

 
興福寺

興福寺を出て一旦寺町から離れることになった。次の唐寺はここから少し離れた
場所にあるので路面電車か何かに乗って行かなければならない。昔からの住宅地
を歩いて行く。ローソンの角から路面電車が走る通りに出た。大工町駅から赤迫
行きに乗る。お昼の路面電車はのどかなものである。桜町駅で降りて山手の方向
へ歩いて行く。                            ★



移動

細い通りを右に入ったところにお寺があった。万寿山聖福寺である。聖福寺初代
の鉄心道胖は唐人貿易商陳朴純と長崎富商西村氏女との間に生まれ、延宝
5年(1
677
年)にこの寺を建立した。廣東人との関係が深いことから廣東寺とも呼ばれ
ている。階段を上って伽藍へ入ると大雄宝殿と書かれた額が見えた。唐寺だ。た
だここがさっきの
2寺と違うのは建築様式が和風ということである。建立にあた
っては母方西村氏の支援を受けたのでこうなったのだろう。ただ、柱に彫られた
対聯と中国風の燈籠を見ればここが唐寺だということがわかる。ぼくの他には訪
れる人もない。和風建築の中に時に唐風の面影を見つけることができる。そうい
うお寺である。木陰が優しい聖福寺を出てまた歩き始めた。        ★


 
聖福寺

ほんのすぐ近いところに分紫山福済寺がある。4つ目の唐寺、寛永5年(1628
)に福建省泉州出身の覚悔が媽姐を祀ったことに始まる。その後慶安
2年(1649
年)に正式な唐寺として開山され、福建省泉州と章州出身者の帰依を受けて発展
してきた。
4つの唐寺の中でもひときわ荘厳殊勝であり戦前の長崎を代表する唐
寺であったが、原爆の爆風で炎上し全焼するという悲惨な結末を迎えた。まさか
このような形で壊滅するとは、本当に残念でならない。戦後になって大雄宝殿跡
に亀型の建物が造られ、観音像とともに世界平和を祈る場所になっている。 ★



福済寺

この2時間余り、長崎の唐寺を歩いてきた。「唐四ヵ寺」または「長崎四福寺」
と呼ばれる長崎の唐寺。長崎と中国を結ぶ海路がたどり着いた先がこの唐寺だっ
たのだと思う。唐人屋敷での居住を強制された唐人たちも唐寺で節会があるとき
には外へ出ることができた。中国南方で訪ねた寺院との共通点を見つけることも
できた。当時はお客さんとして扱われていた唐人や唐寺だが、今はもう長崎の一
市民としてこの地に生活している。東アジアの海路を繋ぐ『南西之旅』、そこに
育まれた歴史の浪漫を今感じている。                  ★


もうすぐ2時半になろうとしている。何も食べないでずっと歩き続けていたので
お腹が減った。長崎駅前の商店街を通り抜けて歩道橋の前にある「かたおか」と
いう中華料理店に入った。天井から中国風の燈籠が吊るされていて漢書の額縁が
あり、この店もなかなか本格的な風情である。神戸でもそうなんだけども、だい
たい華僑華人の多い町で一般的に中華街にほとんどの店が集まっていると思いが
ちではあるが、実はそんなことでもなくて彼らの活動範囲はもっと広い。ぼくが
神戸でよく食べに行く上海料理の店も南京町から離れた所にあったりする。ここ
もたぶんそうだと思う。焼ビーフンと鳥唐揚げを食べてみたところとても美味し
かった。ビーフンは福建料理の代表メニューだからこれを食べるとよくわかる。
食べ終わったところでガイドブックを再び開く。もう
3時になってこれからどこ
へ行くかである。長崎といえば長崎原爆資料館ということになるが、今回はコー
スに入れていない。あくまでも『南西之旅』としての『長崎之旅』である。時間
はぎりぎりになるかもしれないが、とりあえず長崎市立博物館を行き先に決めた。




 
中華菜館かたおか


長崎駅前駅

長崎駅前で路面電車が来るのを待っている。昨日よりも少し暖かい。外国のLRT
のような新型車両がやって来た。車窓をぼんやりと見ている。そして
10分ほどで
浜口町に着いた。長崎駅からほんの少し離れただけなのにもう郊外の雰囲気があ
る。周辺はさっぱりとした住宅地で、ここから少し丘を登ると長崎原爆資料館と
長崎市立博物館がある。長崎原爆資料館についてここで書く必要はないだろう。
今日もたくさんの人が来ているようだ。こうして長崎原爆資料館の隣にある長崎
市立博物館に着いた。原爆資料館の影に隠れて目立たないがここにもなかなかの
展示がある。中世以降の長崎について、特に当時からの文物を並べることで視覚
的な認識を持たせるような仕掛けがしてある。中国関係のものについてはさっき
まで唐人屋敷や唐寺を巡って来たので感覚的にも理解できる。展示品の中に中国
福建省厦門産の陶磁器を見つけて、次回旅立つことになる『厦門之旅』への期待
を大きくした。地下
1階の特別展示室へ下りる。唐通詞の特別展が開催されてい
て、林氏などかつての唐通詞の肖像画や書物などが並んでいた。唐通詞とは当時
の通訳役人である。唐人の子孫たちが代々継承した役目で、唐人貿易を実務面か
らサポートしてきた。在日華僑華人の草分けである。すべての展示を見終わって
長崎市立博物館を出てきた。                      ★



唐通師特別展

4時を少し過ぎたところである。思っていた時間よりもずいぶん早い。博物館前
の案内図を見ると浦上天主堂が近くにあるのでひと目だけ見に行くことにする。
中へ入るには時間的に厳しいだろう。ゆるやかな坂を下りていく。どうやらこの
あたりは長崎の高級住宅街のようである。都心からのほどよい距離、文教施設、
商業施設がバランスよく存在している。教会の尖塔が見えた。あそこが浦上天主
堂だ。そのとき原爆の攻撃で受けた破壊は凄まじいものだった。何度も写真で見
たことがある。今は落ち着いた街並みに囲まれて穏やかな風景を作り出している
。メインの通りに出るところでそのそばに突然広い敷地と建物が現れた。赤い旗
が立っている。中国…、ああここは中華人民共和国長崎総領事館だ。長崎に総領
事館があることは知っていたがこんな落ち着いた場所にあるとは知らなかった。
長崎開港後に開かれた清国総領事館とその後の中華民国総領事館の歴史を引き継
いで、今もここに中華人民共和国総領事館がある。警察が厳重に警備しているの
でレンズを向けられない。浦上天主堂を見上げながら横断歩道を渡って近くのバ
ス停のところまで来た。午後
5時になろうとしていた。冬の夕方である。今日歩
いた道もそろそろ終わりの頃だろうか。バスに乗って都心へ戻ることにする。中
央橋行きのバスが来た。                        ★




 
浦上天主堂

長崎大学医学部の前から住宅街を通り抜けて行く。長崎駅前、長崎市役所を経由
して中島川の流れが見えた。降りたところは中央橋終点である。穏やかな場所で
はないけれども活気がある。長崎港の埋立てが進む前はちょうどこのあたりが中
島川の河口で、出島や新地の唐人蔵が見えていたはずだ。昨日の夜に夢彩都に行
った以外にこのような現代的な場所に来ていなかった。『南西之旅』とはしばら
く距離をおいて歩くことにしよう。路面電車の線路を越えると浜市アーケードと
いう商店街になっている。昔からの長崎の中心らしい。いろいろな老舗から現代
の有名店までいろいろな種類のお店がある。急に人がこんなにたくさんいるとこ
ろに来たので体がついていけないようだ。大丸のところを右に曲がって通りに出
て来た。通りを渡れば左手には思案橋の歓楽街、右手には新地中華街へ通じてい
る。山手の方向へ目をやると暮れかかる夕陽が馴染んでいる。思わずシャッター
を押す。これから新地中華街を通り抜けて長崎港へ行ってみようと思う。港の灯
りを見てみたい。                           ★


 
中央橋

北側の門から新地中華街へ踏み入れるとたくさんの人である。5時を過ぎてそろ
そろ休日の夕食時になってきている。朱塗りの造りがそれらしい雰囲気である。
南門近くの蘇州林という飲茶専門店で店頭売りの叉焼包を買ってみた。正直なと
ころ味はまあまあといったところである。香港で食べるようないわゆる叉焼包を
思っていたのだが、出てきたのは普通の包子のようなもので、しかもコンビニで
売っているような弾力のないくたびれたものだった。中身は普通の包子に叉焼の
切り身を入れただけであって、甘辛く煮た叉焼包の餡にはなっていなかった。は
っきり言って飲茶専門店が出す叉焼包としては寂しいと思う。湊公園で腰掛けて
食べたが、やはりちょっと納得がいかなかった。             ★




 
長崎新地中華街

夜になりそうだ。はやく港へ。路面電車の線路を渡って出島の横を歩いて行く。
出島からまっすぐ海岸線へ出たところで急に明るくなってきた。ここは昨日の夜
にもかすめた出島ワーフである。夢彩都と同じ長崎港の再開発地区でこっちは主
にレストランが集まっている。もともとの岸壁のすぐそばなので触れそうなぐら
い海に近いことと、それから長崎港から稲佐山にかけて広く見渡せるのが良いと
思う。海風が少し寒いけれど我慢してシャッターを押していく。なんとなく綺麗
な写真を撮れそうな気がした。そうしているうちに街の夜景をもっと撮りたくな
ってきて場所をかえてみることにした。長崎開港時のレールをまたいで海岸通ま
で歩き、それから大浦の方へ向かう。昨日の夜に路面電車の中から見た景色を歩
きながら確かめる。このあたりは東山手旧外国人居留地にかかる所で旧英国領事
館の建物が今も残っている。当時は中華民国領事館や横浜正金銀行長崎支店など
も並んでいたそうである。旧香港上海銀行長崎支店記念館の前まで来てカメラの
設定を確認する。露出時間を最長にして海岸通に焦点を合わせた。     ★



夕暮れ

 
出島ワーフ


海岸通

今日はどれくらいの道のりを歩いただろう。坂の多い長崎の街は同じ場所に立っ
て違った風景を見せる。今夜はもう少し歩きたいと思っているが、一旦ホテルに
戻って態勢を整えることにした。充電ケーブルを挿してから窓の外をぼんやり見
ている。坂を上っていく人が少なくない。たぶんグラバー園の夜景を見に行くん
だと思う。ほくはどうしようか。こんなに便利なところに基地があってどうする
べきなのか。とりあえず坂を上ることにした。シャッターが降りた商店を通り過
ぎると暗闇に浮かび上がる大浦天主堂があった。震えるようなライトアップ。坂
を行く人誰もが立ち止まる。この坂を上ってきたのは間違っていなかったようだ
。大浦天主堂は長崎キリスト教の殿堂であり、隠れキリシタンが名乗りをあげた
場所として知られている。もう一度明るいときに来てみようと思う。それからは
もう少し歩いて、グラバー園には入らずに横の通りから雰囲気だけを味わった。
丘の上を照らす灯りにも情緒がある。                  ★



大浦天主堂

もうずいぶん晩い時間になったのかと、そう思いながらもまだ7時半を過ぎたと
ころだった。もう少し散歩を続けることにして、朝通ったオランダ坂へ歩くこと
にした。オランダ坂を上ってもすれ違う人もいない。修学旅行では歩くことはな
い夜のオランダ坂、南山手・東山手の窓の明かりが静かに瞬いている。途中の分
かれ道で朝とは違う方向を選んでオランダ坂を下ってきた。もうこのままホテル
へ帰ろう。今日はひたすら歩いてきた。オランダ坂から唐人屋敷を越えて唐寺へ
。浦上を散歩して長崎港の潮風が匂う。かつての外国文化が長崎の土になっても
う長い時間が過ぎたようだ。今から何か食べに行くような元気もなく、ファミリ
ーマートで食べるものを買って部屋へ戻って来た。            ★



山手の灯

今日のことをしっかりと書き留めておこう。『南西之旅』はこの地に繋がってい
る。台北で見た淡水河の水面に長崎の屋根が映っていたのだと思う。    ★