稚児塚


「清児」という地名ゆかりの塚(石碑の右にある自然石)です。たんぼの中にひっそりと建っています。
ヘアーサロンアベさんの向かいにある地蔵(歯痛地蔵)さんもこんな自然石ですね。
関連があるのでしょうか?

今から1200年以上前の奈良時代のお話。僧行基が今の貝塚市鳥羽から水間に
行く途中道に迷ってしまいました。当時はこのあたりは草木が生い茂っていたのでし
ょう。今の稚児塚のあるあたりでひとりのこどもに出会い、親切なこどもは行基さんを
水間まで案内したそうです。行基さん曰く「なんと親切なこどもや」、親切なこども・・・
親切な稚児・・・、清らかな稚児・・・、清稚児・・・、清児・・・、せちご・・・
バンザーイ!バンザーイ!バンザーイ!
清児には1200年以上も昔から住人がいたんですね。
僧行基は堺市の家原寺で生まれ、僧侶でありながら水間寺建立、永寿池や久米田
池建設など建築・土木事業を通じて庶民に生涯を捧げた泉州自慢の偉いお方です。
青年団の行さんからの情報提供(14/3/10)
稚児塚の言い伝えには続きがあって、大学生の頃自分の名字を調べたのですが、
清児に多い「行」という姓は、その頃の清児村の人たちが行基を尊敬し、「行の基(も
と)となる人物だ。」ということで名乗り始めたそうです。その時代に名字があったかは
わかりませんが・・・。
「ふるさときのしま探訪」(田仲博一氏著)より抜粋
                             資料提供:高井ヨシ子さん
(稚児塚)

聖武天皇御歳42歳のみぎり、ご病気にかかられ、その時夢枕に奈良の都から西南
の方角に観世音菩薩が出現した。早速この観世音の尊像を都にお迎えしてご信仰
するようにと僧行基に使者として勅命が下った。
当時の木ノ島は想像を絶する山間部で、樹木が生い茂りいわゆる獣道程度の道し
かなかった。
観世音菩薩を求めて和泉の国木ノ島の地に足を踏み入れられ、道に迷われ困惑し
ていたところ、十六童子が現れその道案内を買って出て、無事水間の里までお導き
したとのことである。
この時十六童子が餅を搗いて行基菩薩を丁重にもてなした事もあって、行基菩薩は
大いに喜び、「なんと清らかな心を持った稚児共よ!」と賞賛したことから、ここの土
地を清稚児=清児の地名が生まれたといわれている。
(水間寺)
行基が水間の霊地に入ると、巨岩の上で白髪の老人が手に一体の仏さまを捧げ、
「汝を待つ事久し。」と言ったかと思うと己の手を噛み切り、その尊像を行基に渡し、
自分は龍と化して昇天したという。
この尊像は閻浮陀金の聖観世音菩薩で、都へお連れ申し謹んで天皇に捧げたとこ
ろ、不思議にも天皇の病気が平癒したという。
それ以来天皇の行基に対する信頼はますます深く、この仏様を現地でお祀りせよと
再び勅命が下った。
そこで行基は水間の地に堂宇を建立し、厄除け観音として庶民にも広く信仰せしめ
たのである。
天平開創の頃は七堂伽藍(現在の水間〜清児あたりまで?)があって泉州屈指の
巨刹であったという。
天正13年3月(1586年)豊臣秀吉の根来雑賀攻めには、根来勢に味方したため
に、堀秀政の軍勢に攻撃され、仁王門は炎上し、金堂などが破壊され、わずかに薬
師堂、開山堂を残すのみとなった。
その後、寺域は荒れ放題であったが、約100年後(1686年)岸和田藩岡部長奉公
が三重塔、護摩堂を寄進するなどし、当時水間寺境内は6万8000坪を有していた。
ところが天明4年10月(1784年)火災のため堂塔ことごとく炎上した。40年後の文
政10年(1827年)岡部9代城主美濃長慎は先代の意思を継いでこれを再建。
三重塔は元禄年間に江戸の廻船問屋が大成功して返済したという利生の銭で建立
したが、現在のものは天保3年(1832年)岡部長和公によって再建されたもの。

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