消え行く清児新町

岸和田市の中に貝塚市の飛び地として清児新町があります。
昔から清児町の飛び地とされてきましたが、平成19年1月から岸和田市尾生町に吸収されることになりました。
中央を横断する白い道は水道路で、中心部のピンクの細長い部分が清児新町です。




(左)水道路の大阪方面向き。信号の向こう両側が清児新町。
(右)同じく和歌山方面向き。このあたりの両側が清児新町。

(左)水道路浜側から清児新町。
   この辺りにはわずかながら畑地が残ります。
(右)水道路海側から清児新町。
   畑地と竹やぶ。左の竹やぶが低い場所手前は小さな溜池です。

(左)水道路浜側にある清児新町の住宅地から大阪方面を望む。
(右)同じく、和歌山方面を望む。

(左)水道路山側にある岸和田市水道局光明配水場。
   地図を見るとこの辺りも清児新町に含まれるようにように思います。
   水道路の地中には淀川からの上水道が通っています。
   清児新町だけでなく、本家清児町の蛇口から出る水道水もここからの水です。
(右)明らかに岸和田市内ですが表札に「貝塚市清児新町」とあります。
   小さな感動を覚えます。
   勝手に撮影して、家主さんゴメンナサイ。

 どのような経緯でこの場所に清児町の飛び地が生まれたのかは不明です。
 おそらくは、その昔に清児町の先人がこの場所を開墾されたのではないかと推測し
ますが、その目的は???
 清児町から約3q。清児に残る古道、大熊街道を行けば山道とはいえ小一時間で
歩ける距離です。この地に新たな田畑を求めたのか、みかん山であったのか、電気や
ガスの無い時代に燃料用の薪を拾い集めるための山林であったのか、先人たちの生
活を想うと興味が尽きません。
 
 たいへん残念ではありますが、以下のとおり消え行くこととなりました。
 

岸和田市の中の貝塚市、飛び地が135年ぶりに解消へ
             産経関西(2006/09/07)Webサイトより引用

 明治初期の廃藩置県以来、大阪府岸和田市のほぼ真ん中に位置している貝塚市の飛び地が135年ぶりに解消され、岸和田市に編入される見通しとなった。貝塚市清児(せちご)新町地区で、住民は上下水道や小中学校教育などは岸和田市の恩恵を受けられたが、選挙や保健サービスは3キロ以上離れた貝塚市内まで出向かざるを得なかった。9月府議会に関連の議案が提出される予定で、可決されれば来年1月、岸和田市尾生(おぶ)町となる。

 貝塚、岸和田両市によると、清児新町地区は約3万4000平方メートルで、45世帯156人が住んでいる。飛び地となった経緯は定かではないが、「明治4(1871)年の廃藩置県で、土地台帳を整備する中で生まれたのではないか」(貝塚市企画課)という。長らく雑木林だったため、住所地をめぐるトラブルがなかったが平成7年以降、宅地開発された。

 周囲が岸和田市のため水道や学校は岸和田市のサービスを受けざるを得ず、貝塚市が岸和田市に年約1200万円を支払い、サービスを委託していた。しかし選挙の投票や住民票取得などの手続きや、母子検診などの保健サービスは貝塚市役所などに行く必要がある。また、宅地開発当初は救急車を呼んでも、住所をめぐって混乱することもあったといい、同地区の住民からは「どちらの市の施設を使っていいか分からないことが多く不便」などと、飛び地解消を求める声が上がっていた。

 9年に地元自治会から、両市に飛び地解消の請願書が出され、両市間で事務レベルの協議を開始。ただ岸和田市への編入になれば貝塚市にとっては、市の面積が減り人口も減るため、税収面でもマイナスなることから当初土地交換を前提に交渉していた。しかし、地区の人口が増えるに伴い、住民から飛び地解消を求める声が大きくなり、貝塚側が譲歩し岸和田への編入を承認。両市の6月議会で境界確定に関する議案が可決された。

 地方自治法によると、府議会で議案が可決されれば、知事が総務相に届け出を行い、境界の変更が正式に決まる。

 飛び地解消について、同地区に住む主婦(50)は、「当初は郵便物も届きにくくて、『岸和田市にある貝塚市』と説明していた。投票しようにも、地元政治家の活動も分からないし、投票所まで車で15分もかけていく気にならないこともあった。不自然な状態が解消されてうれしい」と編入を歓迎している。
 


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