高井城跡


 今から400年以上昔の戦国時代、天正13年(1585年)3月、太閤豊臣秀吉は、敵対する紀州和歌山の根来衆を討つべく岸和田城に入城しました。
 秀吉軍は岸和田極楽寺から大熊街道を進み、清児盆の山に本陣(槍ケ谷城)を置き、根来衆の各砦を攻めたてました。

 対する根来衆は貝塚市近木川沿いに砦(沢城、畠中城、積善寺城、千石堀城、高井城)を築きこれを迎え討ち、清児周辺は激しい戦場となりました(木島合戦)。

 大熊街道の防御陣地として高井天神社を取り立て構築された高井城は、行左京を城主として、100挺の鉄砲とともに木島谷五ケ荘の村人約200人が備えましたが、福島正則率いる豊臣軍に攻め落とされたと伝えられています。

 水間鉄道名越駅の西方100m、清名台に高井城跡史跡として残る雑木林は名越地ですが、この地は往時の高井城の西端であったと推測され、本丸、二の丸などその大部分が清児地で占めていたもようです。 

一時は近畿自動車道が通る計画もあったと言われる高井城跡。
秋祭りには清児のだんじりが毎年一度だけこの前を曳行します。

貝塚市教育委員会の案内パネルが無ければ誰も気付きません。
かつて故司馬遼太郎氏も取材に訪れ、その著書に紹介されています。

高井天神社がまつられる以前、平安期には既に寺院が存在したようです。
「金の茶釜」が埋まっている!?という言い伝えがあるそうです。
この”幻の大寺”が水間寺の北端であったという説もあります。
草創期の水間寺はかなりの規模で、今の水間寺はかつての奥の院にあたるとか。

「根来出城配置図」です。左下には「清児村」とあります。
村々の間を通る一本線は旧水間街道(旧道)、太い線は近木川です。
本丸、二の丸等が水間街道に面し、その距離86間(約155m)とあることから、
南北は旧水間街道と大熊街道の交差点(地蔵さんがあります)から、
水間鉄道名越駅の手前付近まで、東西は水間街道から近木川までとなるでしょうか。
出城としては相当な規模で、主要街道の押さえとして、重要な地であったのでしょう。

清名台が開発される以前の里山であったころの面影を残す、懐かしい空間です。
どんぐりの実がいっぱい落ちていました。カブトムシやクワガタもよく採りました。

住宅地の中にあるオアシスのような歴史あるこの一画、
次代のこどもたちも、いつまでも大切にしてほしいですね。
参考文献「ふるさときのしま探訪(田中博一氏著)」
第二話「水煙の幻の寺いにしえの高井城の栞」(田中勇一郎氏記)より
資料提供:高井ヨシ子さん

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