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吉岡藤子先生の人となり
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| 三善 貞司(成蹊女子短大講師) 切り絵・塩入みや子 | |||||||||
室戸台風で倒壊した校舎の下敷きになりながら、6人の児童を救って死亡した吉岡藤子先生の話も、最近では知る人が少なくなりました。教員の鑑(かがみ)など古いですか? 昭和9年(1934)9月21日午前8時すぎ、風速60mをこえる大暴風雨が大阪市を直撃します。ラジオが四国の室戸岬に接近中と放送した直後、土砂降りの雨が小止みになったのと同時に、ゴゴオーと物凄いつむじ風のようなものが大阪市を襲い、四天王寺の五重塔が吹っとび、死者1639、重軽傷者22069、行方不明132、全半壊家屋23077という大被害を受けました。とりわけ木造校舎の多かった小学校では、244校のうち178校が被災し、249名の児童と7名の教員が死亡、2千名以上の負傷者を出しています。当時は9月いっぱい8時始業でしたから、こんな大惨事になったわけです。吉岡先生の勤務していた豊津尋常小学校の校舎 も、映画のスローモーションのようにグシャッと壊れていきました。 吉岡先生は明治40年(1907)山口県の宇部市の生まれ、小学校4年の時父が死亡したため生活が苦しくなり、妹が4人もいたので母を助けようと京都に出て、紡績工場の工員として働きます。この工場には夜学校があり、同志社からボランティアで来ていた先生の指導を受け、基礎的な学力を身につけます。 「どうかな、そんなに勉強が好きなら、準教員養成所に移らんかね。ここなら学費も安いし飛び級制度もある」 こう勧められて吉岡先生は岡山県の「有漢(ゆうかん)準教員養成所」に入りました。4年制ですが試験成績がいいと、どんどん上級に進むことができます。よほど頭がよく努力もしたのでしょう。大正15年(1926)先生はたった1年間在籍しただけで卒業し、教員免許状を授けられます。 「吉岡さんは寄宿舎の消燈時間が過ぎても、押入れに入ってローソクつけて勉強していました。あるとき過って前髪を焼いて変な頭になったことを覚えています。あの人、いつ寝るんやろと噂になりました」 「同室の友だちが肺を悪くして何度も血を吐いたことがあります。みんなうつったらこわいと逃げ腰でしたが、彼女は着物が汚れるのもかまわず、いつも看病していました」 級友たちはこんな思い出を書いています。 |
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卒業後すぐ山口県豊浦郡の小学校に勤め、間もなく結婚し娘牧子の誕生でいったん退職します。ところが肥料問屋の主人だった夫が病死し、兵庫県川辺郡の、続いて大阪市淀川区の三国の紡績工場で働きます。いずれも女子工員たちに国語や算数、あるいは音楽や裁縫を教える仕事でした。まだ小学校を出たばかりの末妹八重子に牧子の世話を頼み、社宅を借りて三人肌を寄せて暮らす毎日ですが、なにかと女子工員たちから頼りにされ、よき相談相手となります。 昭和8年4月、彼女の人柄を認めた府立修徳学院長 熊野隆治は、吹田市の豊津小学校訓導に推薦し、翌年1年生女子組の担任(当時の小学校は男女別クラス)になります。念願かなっての教員復帰ですから大張りきり、また若いお母さん先生で子どもたちの気持もよくわかるとあって児童から慕われ、保護者の評判もいい立派な先生でした。 その日は「お月見踊り」の練習があるといって、吉岡先生は少し早目に教員住宅を出たそうです。 「雨風は強かったですが、前日まで残暑は厳しく、誰もがこんな恐い台風が来るとは思いませんでした。でもその日に限って姉は、八重ちゃん、いつも牧の子守ですまないねえ、なんて妙な声でいうのです。虫の知らせってあるんでしょうか」 「玄関で牧ちゃんとバイバイすると、姉は笠をすぼめるようにして出ていきました。そして傘をとられそうになった登校中の2人の子をみつけると、両脇に抱えるようにひき寄せ、頼りなげに道を曲がっていきました。これが生きている姉を見た最後です」 後に八重子は姉の思い出をこう語っています。 |
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![]() 三善 貞司(成蹊女子短大講師) 切り絵・塩入みや子 |
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| 豊津小学校は前年当地に移転してきたばかりで、北・南2棟の校舎がありました。北棟は新築した建物ですが、南棟は前校舎を解体して運び、組み直した老朽木造で、吉岡先生は南棟1階の東から2つ目の教室が受け持ちでした。 午前8時頃雨風は猛烈な唸り声をたて、教室はミシミシきしみ大きく揺れ始めます。 豊津小学校の改造南棟校舎1階の1年女子組担当吉岡藤子先生は、「お月見踊り」の練習中でしたが、メリメリと校舎がきしみ揺れ、 「先生、こわい!」 と児童たちにすがりつかれました。 「逃げろ!講堂へすぐ避難せえ。危い、早く逃げろ」 向こうの廊下を男子の先生が走り回りながら叫んでいます。 「さあ、皆さん、早く、早く」 最後まで踏みとどまった先生は、教室がカラになったのを確かめ、しがみついている数名の女の子をひっぱって出ようとした瞬間、物凄い音がして校舎が崩れ落ちました。 「風が猛獣のように吼(ほ)え狂ったとたん、あたりがパっと明るくなり、南校舎が映画のスローモーションのように、ゆっくり崩れていきました」 講堂に逃げ込んだ同僚はこう語っています。 記録によると大阪管区気象台は、風速60メートルの最大瞬間風速を観測したのを最後に風力計は吹っ飛び、高さ43メートルの無線大鉄塔はあめ細工のようにひん曲がって倒れたといわれます。 豊津小学校の惨状は眼を覆うばかりでした。警察や消防団、村の人たちが駆けつけますが、崩れ落ちた柱や屋根瓦の下から洩れるうめき声に、身体がすくんでしまいます。次々に運ばれる子どもの遺体にとりすがって号泣する母親たち、地獄絵巻でもこれほどむごたらしい場面はありますまい。 「おい!生きているぞ。早く手をかせ」 瓦礫(がれき)をとり除いていた救助隊のひとりが叫びました。やがてうつ伏せになった吉岡先生の姿が見えてきます。しかも先生の両腕と胸の下、それに袴の下から6人の女の子がひとことも喋らずぶるぶる震えて現れたのです。 担任の1年女子組の岸田光子・石田好子・小田美穂子・辻敏子・松本愛子、それに3年生の棚瀬雪江の少女たちでした。このなかで棚瀬・松本・辻の3名は負傷して病院にかつぎこまれましたが、残り3名はかすり傷程度で、こんな瓦礫の下敷になってなんたる奇跡か、信じられないといわれたほどです。しかし吉岡先生は全身が硬直し冷たくなっていました。 「あとで隊員の方に聞いた話ですが、姉は子どもたちをひしと抱きしめて上にのしかかっており、ひき放すのに骨が折れたとのことです」 先生の妹八重子はこう語っています。ひとり娘牧子を残し27歳の最期でした。 「私は1年男子組にいた弟が気になって、階段をかけおりたとき校舎が崩れました。眼の前に吉岡先生がおられたので、思わずすがりついたように思います(棚瀬)」 「私は大怪我で病院にかつぎこまれました。父が自転車でとんできましたが、途中で自転車ごと田んぼの肥溜(こえだめ)に落ち、全身汚物だらけになっていたと後で聞きました(辻)」 「今でも風が恐くて、ちょっときつい風が吹くとブルブル震えて子どもたちに笑われています(岸田)」 などと後に彼女たちは語っていますが、誰ひとり吉岡先生のそのときの様子を覚えている人はおりません。よほど動転してすがりついたのと、庇った瞬間先生は押し潰されて命を奪われていたのでしょう。 豊津小学校では他に児童51名が圧死、34名が負傷、4年担任の横山仁知子先生も死亡、教員2名が負傷しています。横山先生は9月に着任したばかり、まだ25歳の娘さんでした。 室戸台風では大阪の教職員18名、生徒・児童676名の犠牲者が出ました。これは大阪の小学校の大半が、老朽化していた木造校舎だったからです。当時の大阪市長は歴代市長の中でも名市長と謳(うた)われた関一(はじめ)です。彼は全力で大阪復興に取り組みますが、とくに小学校は全部鉄筋コンクリートにせよと経済事情のきわめて悪かった時代ですのに、強く命じています。もっとも関は過労がたたって翌10年1月63歳で急死しますから、文字どおり命を賭けた事業でした。 吉岡先生の殉職は多くの感動を人々に与え、教師魂の権化として称賛されます。各方面から義捐(ぎえん)金も寄せられ、帝国教育会はこれらをもとに大阪城公園に教育塔を建設し、犠牲者を慰霊しました。今も教育の場で殉難した児童生徒・教職員たちの霊を合祀しています。なお先生の遺児牧子は、後に中学校教諭(音楽)になりました。 |
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