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MAIN BACK 飲酒 其五 陶 淵明

    飲酒  陶淵明

   廬を結びて人境に在り
   而かも車馬の喧かまびすしきなし
   君に問う 何ぞ能く爾しかるやと
   心遠ければ地も自ずから偏なり
   菊を采る 東籬の下もと
   悠然として南山を見る
   山気 日夕に佳
   飛鳥 相与ともに還る
   此の中に真意あり
   弁ぜんと欲して已に言を忘る

役人暮らしにお別れをして
人住む里にいおりを結ぶ
のんびり構えてこちらの世界
お役人との行き来もないさ
垣根のもとに菊を育てて
ゆったりお山を眺めて暮らす
日暮れのお山はまた格別さ
鳥も連れ立ちねぐらに帰る
言葉でうまくは言えないけれど
これがまことの人の姿さ

陶淵明故居(江西省・廬山)(漢詩をよむ・詩人と風景)

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071   ←前の詩次の詩→


   いおりを構えているのは、人里の中。
   しかもうるさい役人どもの車馬の音はきこえて来ない。
   よくそんなことがありうるものだね、と人がいう。
   こせこせした気持ちでいないから、土地も自然とへんぴになるのさ。

   東の垣根に菊を折り取っていると、ふと目に入ったのは南の山、
   廬山の悠揚せまらぬ姿、それをわたしはゆったりと眺めている。

   山のたたずまいは夕暮の空気の中にこの上なく素晴らしく、
   鳥たちがうちつれてあの山の塒(ねぐら)へと帰ってゆく。
   ここにこそ、何ものにもまとわれない人間の真実、それをねがうものの姿が、私にはよみとれる。
   が、それを言いあらわそうとしたその時には、もう言葉を忘れてしまっていた。

                   (一海知義「中国詩人選集・陶淵明」)

 陶淵明の言葉は、つねに平静である。しかしそれは高い密度をもった平静さであり、平静なものの裏には、複雑で濃厚なものが、ひしめき、かげろっている。
 それはたとえば、深淵の水のように、表面は、人の心を沈静する碧の色に、ひそまっている。しかしその底には、相矛盾し相衝突するいくつかの流れが、おしあい、たたかい、その力の平衡が、表面の沈静を作っているように思われる。
 宋の蘇東坡はいう、吾れ詩人に於いて好む所無し。しかして独り淵明の詩を好む。淵明の詩は、そのかず多からず。然れども質にして実は綺(き)、痩せて実は腴(こ)ゆ。(「痩せて」の原文はヤマイダレに瞿)
 質にして実は綺、とは、質実なるごとくにして実ははなやかであり、巧緻であることをいうのである。また痩せて実は腴ゆ、とは、やせたるがごとくにして、実はあぶらぎっているというのである。
 このことは、いいかえれば、淵明は、つねにその言葉以上のものを、その言葉によって語ろうとしているということである。
 この詩は連作「飲酒二十首」の第五首であって、陶淵明の詩のうち、人人の最もよく知るものである。ところでこの有名な詩は、その訓詁に於いて、いくつかの問題を蔵する。
 第一は、「采菊東籬下、悠然見南山」という句である。
 悠然見南山、悠然として、南山を、見る、を、いかなる意味に読むかについては、異説が予想される。
 普通には、悠然は、見という動詞の副詞であり、詩人自身が、悠然として、南の山、すなわち廬山を、見ているのである、と解されている。
 しかし悠然見南山という句は、いま一つの読み方をも容れ得る。
 それは悠然を、見る淵明の形容ではなく、見られる南山の形容として読むことである。そうした意味をいわんとして、悠然見南山と字をゆくことは、五言詩の句法として、不可能ではない。
 要するに、悠然見南山、という言葉は、悠然として南山を見る、とも読み得れば、南山の悠然たるを見る、とも読み得る。
 しかし更にもう一つ考えれば、これはどっちでもよいことを、議論しているのであるかも知れない。山を見ている淵明も悠然としていれば、淵明に見つめられている山も悠然としている。主客は合一して分ちがたく、そうした渾然たる状態を、悠然見南山とうたったのではないか。それもまた中国語としては可能でる。
 次にその訓詁を論じたいのは、「山気日夕佳、飛鳥相与還」をうけて、「此中有真意、欲弁已忘言」という、結びの聯である。
 まず「真(しん)」という言葉から穿鑿をはじめよう。この言葉は淵明のしばしば使うものであって、若い友人一海知義君の指摘するところによれば、百二十首弱のその詩のうちに、この詩をふくめて、真の字は六度あらわれる。(その用例から推測するに)、「真」とは上古の世には存在した、人間の真実な生き方、もしくは真実な心情を意味する。そしてそうした純朴な真実な生活をいとなむことが、淵明自身の生活の理想でもあった。つまりその生活に於ける最上の価値であった。
 そうして透明な夕暮れの空気の中を、山のねぐらへと帰る飛鳥を見て、
  此中有真意  此の中に真意有り
 というのは、この平和な風景の中にこそ、この世の真実、真理はある、というのでなければならぬ。
 では更に一歩をすすめて、淵明が、この世の真理と考えたものは何か。近ごろ一海知義君が、自由 Freedom を以てそれに擬するのは、傾聴すべき説である。
 私は、これまで、真意の二字を、ただちに真実の意と解して来た。しかしよく考えて見るに、それは軽率な解釈であったようである。
 ひそかに思うに、「真意」の二字は、真、すなわち真実への端緒、示唆、予兆、ということなのではあるまいか。あたかもなお雨ふらんとして、なおふるに至らない、あめもよいの天気のことを、雨意あり、という、そのごとき、意の用法なのではあるまいか。南山の方へと帰りゆく飛鳥の姿、その中にこそ世の真実はある、とはっきり輪郭を伴った事体としていい切ったのではなく、その中に真実への示唆がある、この中に真の意(きざし)有り、と、事体を雰囲気に於いてとらえ、余裕をおいていった、とする方が、より淵明的である。Acker 翁の英訳に、A hint of truth というのは、なかなかに正しいのではあるまいか。

                   (吉川幸次郎「陶淵明伝」)

〈玉壷庵独白〉この詩の訳として、一海知義訳をとりあげたのは、他の諸先生の訳較べて大きな違いがあった故です。一海先生の訳に接して、例えば、「廬山の悠揚せまらぬ姿、それをわたしはゆったりと眺めている」とか「ここにこそ、何ものにもまとわれない人間の真実、それをねがうものの姿」というあたりに、何か、極めて厳密な、というか、悪く言えば、まどろっこしくて、くどいという感をうけました。
 そこで、吉川博士の「陶淵明伝」の当該箇所を読み、はじめて一海先生の訳が腑に落ちました。漢詩というより漢文はつくづく奥が深いな、と、改めて感心させられた次第です。