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    春望  杜甫

   国破れて山河在り
   城春にして草木深し
   時に感じて花は涙を濺そそ
   別れを恨んで鳥は心を驚かす
   烽火ほうかは三月に連なり
   家書は万金に抵あた
   白頭の掻きて更に短く
   渾べて簪に勝えざらんと欲す

花も泣け
この世の乱れを
鳥も哭け
力なき身の
髪衰えぬ

唐代の宮城・大明宮跡の麟徳殿遺址(陝西省・西安)
(中国語ジャーナル)

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091   ←前の詩次の詩→


 この詩は比較的早い時期の作であって、杜甫46歳、安禄山の叛乱がおこってすぐあと、皇帝の朝廷とへだたり、疎開先の家族ともへだてられて、ただひとり、叛乱軍の陣営に拘禁されていた間の作であるという。
  「国破れて山河在り
   城春にして草木深し」
 「国破れて」とは、国家の機構が解体して、狂人が出たらめにはさみを入れた紙ぎれのように、ぼろぼろになってしまったことをいう。敗戦の意ではない。破と敗とは、おなじくヤブレルと和訓するけれども、漢語の本来の意味はおなじでない。
 しかし山河大地は、そうした人間の不幸に超然として、そのままに存在する。「在」という字も、単なるアリの意味ではない。依然として、確固として、存在する、というほどの意味を「在」の一字がもっている。そうして「城は春にして草木深し」。城郭にかこまれた町町に、春は今年も、めぐり来た。人間はその秩序を失っても、自然はあくまでもその秩序を失わない。人影もない城壁のほとり、草木は青青と、めぐみ、しげる。芭蕉が「城春にして草青みたり」とこの句を引用するのは、記憶のあやまりであろうか、わざと改めたのであろうか。
 第二の対句、
  「時に感じて花は涙を濺ぎ
   別れを恨んで鳥は心を驚かす」
 「時」とは、時世のありさまをいう。時世のありさまに悲しみを感じて、花見心をいためるのであろうか、涙をこぼすように、はらはらと散る。また人人がちりぢりになってしまった不安な空気の中では、鳥のなき声も何となく不安げである。
 かく涙を濺ぐのは花であり、心を驚かすのは鳥であるとして、吉川はこの聯を読みたい。今の中国語にも「驚心吊膽」という言葉があり、それはおっかなびっくりの意である。もっとも、涙を濺ぎ心を驚かすのは、杜甫自身であるとして、「時に感じては花にも涙を濺ぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」と読む説もある。
 第三の対句、
  「烽火は三月に連なり
   家書は万金に抵る」
 三月は陰暦の三月、陽暦でいえば四月、いつもならば一ばんたのしい季節である。ところが安禄山の叛乱によってあちこちに起る烽(のろし)の火は、この最も美しい月になっても、まだやまない。この混乱の中にあって、疎開地において来たままの家族は、今どうしているであろうか。食糧はどうして手に入れているであろうか。いやそもそも生きているであろうか。ぷっつりとたえはてた消息。もし家書、家からの消息が得られるならば、おのれはそれを万金に相当するものとして、貴重しよう。「家書抵万金」。dii という重い発音をもつ抵の字は、相当するという意味であるが、「万金に抵る」と率直にいいはなしたところが、なかなかに悲痛である。なお「烽火連三月」の三月を、三ヶ月間と解くのは、正しくないであろう。似た用語例として、初唐の詩人王勃の仲春郊外と題する詩に「物色連三月、風光繞四隣」と見え、それは明かに旧暦三月の意であるからである。
 最後の聯、
  「白頭は掻くごとに更に短く
   渾(す)べて簪(かざし)に勝(た)えざらんと欲す」
 46歳の杜甫は、はや白髪であったらしい。憂いにまかせて掻く白髪の、掻けば掻くほど、ぬけまさり、簪をさすにもたえかねそうだ。当時は、男子も結髪し、仕官の人は、冠の外からヘアピンを、まげの中につきさし、冠を固定させていた。それが簪(さん)である。「渾べて簪に勝えざらんと欲す」。渾の字は、すべてというか、なべてというか、まるっきり、まったくもって、の意であって、デスパレートな気持ちをよく現わしている。
 家族に対するこまやかな愛情、それは杜甫の詩の一特徴である。晩年の放浪は、ずっと妻子をかかえての旅であったが、家長としてのこまかい思いやりが、いつもその詩ににじんでいる。いわんやこの詩の作られた時には、家族とはなればなれになったままであった。国への愁いは、家への愁いと相重なって、詩は悲痛ならざるを得ぬ。遣懐(けんかい)と題する別の詩には「反って畏る消息の来たるを」、なまじっか不幸な消息を伝えはせぬかと、手紙が来るのが反っておそろしいとも、いっている。
 しかし、やがて杜甫は、賊軍の監禁から脱出する。そうして妻子との再会を、やがてとげる。ひとり妻子との再会をとげるばかりでなく、変装して賊軍の陣営を脱出し、新帝の行在所にはせ参じたという冒険的な行為をめでられて、朝官としての地位も安定する。しかしそれもしばらくのことで、天成の不平家は、官吏としての地位をすぐすてる。そうして家族をかかえつつ、食糧をもとめて、流浪の旅にのぼる。流浪は、甘粛、四川、湖北、湖南と、西南中国の各地を、12年にわたって、その死に至るまでつづけられる。

                   (吉川幸次郎・三好達治「新唐詩選」)