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「蟻通」と蟻通神社

  「蟻通」梗概

 紀貫之が玉津島参詣のため蟻通神社まで来ると、俄に日が暮れて大雨となり、乗馬さえ倒れてしまう。途方に暮れていると、年老いた宮人が現われ、この処は物咎めをする蟻通明神の境内であるから、そうと知って馬を乗り入れたのであれば、命がないと言われる。貫之が名を告げると、それでは和歌を詠じて神慮を慰めなさいと言う。そこで「雨雲の立ち重なれる夜半なればありとほしとも思ふべきかは」と詠じると、宮人は感心し自分が蟻通明神である由を告げる。
 和歌の徳を讃えるのを目的とした曲である。またシテの宮人が傘と松明(または燈籠)を持って現われるのも珍しい。



「そもや下馬とは心得ず。ここは馬上のなき所か」「あら勿體なの御事や。蟻通の明神とて、物咎めし給ふ御神の。かくぞと知りて馬上にあらば。よも御命は候べき。これは不思議の御事かな。さて御社は」「この森の中」「げにも姿は宮人の」「燈の光の影より見れば」「げにも宮居は」「蟻通の」 神の宮居の二柱。立つ雲透きに、見ればかたじけなや。げにも社壇のありけるぞ。馬上に折り残す、江北の柳蔭の。糸もて繋ぐ駒。かくとも知らで神前を恐れざるこそ、はかなけれ。恐れざるこそはかなけれ。



蟻通神社

 蟻通神社は大阪府泉佐野市長滝にある。由緒書によれば、祭神は大国主命。開化天皇、紀元93年に創祀、五穀豊饒長寿の神として祭られた。5世紀に新羅より優秀な技術集団が渡来し、今日の条里制農地を造り国土開発の神として崇められる。平安時代、摂政藤原道長の領地となる。
 平安後期から熊野信仰が盛んとなり、上皇貴族が大掛かりな編成で行列を組んで参拝、蟻の行列に似ているところから「蟻の熊野詣」と呼ばれた。
 室町時代には根来寺の政権下にあり、日根郡の中心神社となり、境内は1万2千坪を超える広大なものであった。16世紀末、織田信長、豊臣秀吉の根来、雑賀攻めにより焼失。その後再建されるも、大阪夏の陣で再度焼失した。徳川時代、17世紀後半、岸和田藩主岡部宣勝公により社殿、能舞台、宮寺宗福院などが造営された。
 昭和17年、神社および付近一帯が飛行場として摂取され、神社境内も現在地の2千6百余坪に狭少されたが、移転後わずか一年で敗戦となった。


蟻通神社由緒

本殿


朱印

 《紀貫之の冠之渕の由来》

 紀貫之が乗馬のままで、蟻通神社の社頭を通り過ぎ去ろうとすると、一天俄にかき曇り風雨が強く吹きつのり、貫之の冠が吹き飛ばされ、馬が倒れて急死の状となった。通行の里人の言うには、これはここに祭る神の祟りであろう。お祈りをし、お詫びをしなさいと。何と言う神かと問うと、ありどほし神だという。
  かきくもりあやめも知らぬ大空にありとほしをば思うべしやは
と和歌一首を奉ると、不思議や天は晴れ、馬はたちどころに回復したという。よって落冠した渕に紀貫之冠之渕と名付け今に語り伝えている。

 『紀貫之集』巻十、雑部に以下の記載がある。

 紀の国に下りて帰り上りし道にて、俄に馬の死ぬべく病ふところに、道行く人々立留りて云ふ「これは、ここにいまする神のし給ふらん。年ごろ社もなく、しるしも見えねど、うたてある神なり。さきざきかかるには命をなん申す」と言うに、御幣もなければ、何わざもせで、手洗いて「神おはしげもなしや。そもそも何の神とか聞えん」と問へば「蟻通の神」と言ふを聞きて、よみて奉りける。馬の心地やみにけり
   かき曇りあやめも知らぬ大空にありとほしを(在リト星ヲ)ば思ふべしやは



 《枕草子にみえる蟻通神社》

 社は、布留の社。生田の社。旅の御社。花ふちの社。杉の御社は、しるしやあらんとをかし。言のままの明神、いと頼もし。「さのみ聞きけん」とやいはれ給はんと思ふぞ、いとほしき。
蟻通の明神、貫之が馬のわづらひけるに、この明神の病ませ給ふとて、歌よみ奉りけん、いとをかし。
 この蟻通とつけけるは、まことにやありけん、・・・(この段、長文のため要旨のみを記します)


 孝行ものの中将が、当時老人を棄てる定めがあったにもかかわらず、家にひそかにかくまって親孝行の誠を尽くしていた。その時、唐土の皇帝が日本を掠め取ろうと、難題を突きつけてきた。一つは「本末同一の太さの木の棒の、根元と末を見分けること」、二つは「二匹の蛇の雌雄を見分けること」、三つは「七曲にくねった小さな管玉に糸を通すこと」。時の帝は、知恵者を呼ぶが誰も答えることができず、困り果てていたところ、かの中将が、匿っている親に教えられ難問を解決し、老人を棄てる法を改めるようにして貰った。
 三問目の解決法は、大きな蟻に糸をつけて穴に入れ、もう一方の口に蜜を塗っておく。蟻は蜜の香をかいで七曲の玉を通り抜け、玉に糸を通すことができる。


 さて、その人の神になりたるにやあらん、その神の御もとに詣でたりける人に、夜現われて宣たまへりける
   七曲(ななわだ)にまがれる玉の緒をぬきて蟻通とは知らずやあるらん
と宣たまへりける、と人の語りし。


紀貫之冠之渕由緒<

冠之渕

 蟻通神社はJR阪和線長滝駅より北西およそ1キロメートルのところに位置します。終戦まぎわの「佐野飛行場」建設のため、境内を大幅に削減され、現在はうらぶれた村の小社というたたずまいで、古の威容をうかがい知るよすがもありません。
 最初に訪れた時はどなたも不在で主務所が閉じられており、話を伺うことができませんでしたが、白蟻による被害の修復工事を行っていました。蟻通神社に白蟻が巣くっていたとは、また何とも皮肉な話ではあります。
 正面の鳥居の右手奥に紀貫之ゆかりの「冠之淵」がありますが、本来、旧所蟻通神社の北100メートルのところにあったものを、明治百年記念として1968年に、鳥居、弁才天、仏足石などとともに、新たに整備されたものです。現在地より数百メートルほど北に行った路傍に、旧蟻通神社の記念碑が建てられています。軍による愚かな飛行場計画などが無く、昔のままの姿が残されていたらと残念でなりません。近年、泉州沖に関西新空港が建設されたのも、何やら因縁めいたものを感じた次第です。
 「蟻通」のいわれとして、枕草子などにある、七曲の玉の穴を蟻が通った、所謂「蟻通伝説」よるものと言われていますが、熊野街道を通る「蟻の熊野詣」が根拠になっていると考えたほうが、何となく自然な感じを受けます。なお、和歌山県田辺市、かつらぎ町にも同じく「蟻通神社」が鎮座しており、「蟻通」の由来については、「蟻通伝説」に基づくようです。また奈良県東吉野村の丹生川上神社中社も「蟻通神社」の呼称があったようです。

  《蟻通神社移転記念碑》

 蟻通神社移転記念碑は、神社の北、数百メートルの路傍に建てられています。以下は、その碑文です。

本神社遷座ノ已ムヲ得ザルニ至ル敬神ノ念厚キ本村民ノ衝撃譬フルニ物ナク、其ノ地物居住ノ憂一方ナラザルモ、神社移転ノ通念ハ更ニ大ニシテ、先祖伝来ノ執着深ク、信仰厚キ氏神社ノ移転ヲ、甚ダシク難シトセル、現下皇国ノ一大事ト神州護持ノ為トハ、比スベクモアラズ
 


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