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屋島・檀の浦 〈屋島〉

  能「屋島」梗概

 作者は世阿弥元清。平家物語に拠ったもので、詞章も同書の文に従がっているところが多い。田村、箙とともに勝修羅三番のひとつである。
 都方の僧が讃岐国屋島の浦で、塩屋に一夜の宿を借りる。主である漁翁は都の僧と聞いて懐かしがり、この地で源平が戦った昔のことを、義経の大将振り、悪七兵衛景清と三保谷四郎との錣引き、佐藤継信の最期などを語る。そして義経の幽霊であることをほのめかして消え失せる。
 やがて僧の夢中に甲冑姿の義経が現れ、弓流しの次第を物語ったのち、夜明けとともに消え失せる。
 屋島は、田村、箙とともに勝修羅三番の一に数えられ、修羅の苦患は二の次となり義経の武勲を表わすのが主眼となっている。それ故「亡き跡弔ひてたびたまえ」というような言葉は、主人公の口からは一言も漏らされていない。


いでその頃は元暦元年三月十八日の事なりしに。平家は海の面一町ばかりに船を浮かめ。源氏はこの汀にうち出で給ふ。大将軍の御出立には。赤地の錦の直垂に。紫裾濃の御着背長。鐙踏ん張り鞍笠につゝ立ち上り。一院の御使。源氏の大将検非違使五位の尉。源の義経と。名のり給ひし御骨柄。あつぱれ大将やと見えし。今のやうに、思ひ出でられて候。


 屋島檀ノ浦の源平古戦場の跡を探訪しました。当初、屋島といってもどこに何があるのかさっぱり解らず雲をつかむような有様でしたが、高松市の観光ガイドを検索、屋島史跡ガイドマップに大いに助けられました。以このガイドマップの指示に従がって謡蹟めぐりを実施しました。
 史跡のそれぞれのポイントには、高松市観光協会、牟礼町教育委員会の案内板が設置されています。以下、緑字で表記している部分は、この案内板からの転記であります。また史跡探訪をまとめる際、一部屋島史跡ガイドの記事を転載させていただいております。

屋島ドライブウェイから古戦場跡を望む

 《屋島寺へ》

 合戦の次第とは異なりますが、ガイドの順路に従い琴電・屋島駅で電車を降り、少し贅沢をしてタクシーを拾い山頂の屋島寺を目指します。以前は屋島ケーブルがあり山頂まで行けたのですが、不況のあおりか観光客が大層減少しているようで、現在は休止しています。
 ドライブウェイの中間ポインに壇ノ浦展望台があり車を停めると、眼下に檀ノ浦古戦場が一望のもとに拡がっています。正面に五剣山(五拳山と言うのが正しいという説を聞きました。握りこぶしの形をしているからだそうです。もっとも現在は一番左手の指の部分が崩れているようですが)が聳え、左手の入り江が檀ノ浦。そこから相引川に沿って史跡が点在しています。
 今でこそ屋島は本土と陸続きになっていのすが、これは最近の埋め立てによるもので、もともと完全に離れた島であった由。その名残として、相引川によりかろうじて本土と切り離されています。相引川は屋島南部をを東西に流れどちらの側も海につながっているという変な川です。源平互いに勝負がつかず引き分けたから「相引川」と言うとか、あるいは引潮のときには両サイドから潮が引くので「相引川」と言うとか。

 相引に引く汐の後は鬨の声絶えて、磯の波松風ばかりの音淋しくぞなりにける。

 再び乗車して少し行くと、左手に「ミステリーゾーン」なる看板が出ています。少し走り前方が下り坂になったあたりで、突然運転手さんが停車し「今ニュートラルにしますからね、よく見ていてくださいよ」と言います。何かなと思い車窓から外を眺めると、車は僅かながら後退しています。ところが前方を見ると明らかに下り坂。「おかしいでしょう。なんでもこんなところが全国でも何箇所かあるようですね」と運転手さん。ほほぉー、それでミステリーゾーンなのか。
 まさか平家の怨霊ではないでしょうが、何やら得体の知れぬものに後ろから引き戻されているような感じになりながら、再発進。屋島山上、西国第八十四番札所の「屋島寺」へと参ります。
 屋島寺山門の手前の壁沿いに屋島合戦の絵巻が描かれており、観光客やお遍路さんの足を留めておりました。この絵巻はそれぞれのポイントのところで紹介することといたします。


屋島合戦絵巻の看板

 屋島寺はこの近辺の札所では最大の規模ではないかと想像します(以前に行った八十六番札所・志度寺とは格段の相違です)。境内にはお遍路さんがお参りをされており、近くには恐らく台湾からの観光客とおぼしき家族連れが強烈に話しておりました。ともかくタクシーを待たせていますので、朱印を頂戴して「血の池」へと急ぎます。Time is money.


屋島寺山門

 屋島寺山門の前方に通称「血の池」があります。正規には「瑠璃宝(るりほう)の池」といい、弘法大師が屋島寺伽監を南嶺に移す際、お経と宝珠を納めて池としたと伝えられています。

 屋島山上の「血の池」

 屋島寺伽監草創のおり弘法大師が『遍照金剛、三密行所、当都率天、内院管門』と書き、宝珠とともにおさめまわりを池としました。ところが竜神が宝珠奪いに来ると伝えられ、瑠璃宝の池の名があります。
 また、源平合戦のとき檀ノ浦で戦った武士たちが血刀を洗ったため、池の水が赤くなり血の池とも呼ばれるようになりました。

 屋島の山上には、「獅子の霊巌」「談古嶺」などほかにも見るべきところが多くあるようですが、なにしろこちらはタクシーの料金が気になります。必要最低限のものさえ見れば「はぃ、おさらば」という次第にて、山上に別れを告げました。


 
 《屋島側の史跡探訪》

 ドライブウェイを下り、相引川の左手の屋島側(合戦では平家方の陣地)を探訪することとし、義経鞍掛の松は最後にまわし、タクシーで佐藤継信の墓地まで行って貰うことにしました。下山して少し東に走ると「赤牛崎」があり、源氏はこの地から屋島に攻め込んだといわれています。案内板によりますと、

 赤牛崎(あかばざき)
 寿永4(1185)年2月、屋島源平合戦のおり、源氏軍は瓜生が丘に陣を構えました。
 当時屋島は島であったことから容易に渡ることができませんでしたがたまたま高松方面(高松町)から赤牛が渡れるということを聞いて(夜中、牛の角に松明をつけて渡ったともいわれている)浅瀬があることを知った義経は、後藤兵衛父子ら源氏30余騎に海を渡らせ屋島に上陸、平家軍の陣営に攻め寄せることができたと伝えられるところから、この地に赤牛崎の名が残っています。



「赤牛崎」案内板

赤牛崎付近の相引川

 赤牛崎の案内板を通過して北に進路をとり国道150号を進みます。屋島東小学校の北側の路傍に「菊王丸の墓」があります。そのあたりから遍路道に入りちょっと行くと「安徳天皇社」、また少し北上して左手に坂を登ると「佐藤継信の碑」があります。坂の手前でタクシーを降りここからは徒歩での探訪に切り替えます。NHK大河ドラマ「義経」の故か、あるいはこれにあやからんとしたものか、屋島の史跡には「げんぺい」と記された紅白の旗がなびいていて大変助かりました。
 順路とは前後しますが編集の都合上、菊王丸と継信を一緒にいたします。佐藤継信は主義経の身代わりとなっただけに、武士道の鏡としてもてはやされたものでしょう。菊王丸がこれに比べやはり割をくっているのもしかたのないところでしょうか。なお、「佐藤継信の墓」は牟礼町王墓にあります。


これを御覧じて判官。お馬を汀に打ち寄せ給へば。佐藤継信能登殿の矢先にかゝつて馬より下にどうと落つれば。船には菊王も討たれければ。共に哀れと思しけるか船は沖へ陸は陣に。相引に引く汐の後は鬨の声絶えて、磯の波松風ばかりの音淋しくぞなりにける。


菊王丸の墓


佐藤継信の碑


合戦絵巻・佐藤継信と菊王丸
 菊王丸の墓
 源平合戦のとき、源氏の勇将佐藤継信は、大将義経の身代わりとして能登守教経の強弓に倒れました。そのとき教経に仕えていた菊王丸は、継信の首を切り落とそうとしましたが、そうさせまいとする継信の弟忠信の弓によって倒されました。
 菊王丸は、教経に抱きかかえられ、自らの軍船に帰りましたが息をひきとりました。教経は、菊王丸をあわれんでこの地に葬ったと伝えられています。

 佐藤継信の碑
 継信の死を広く世の人に知らせるため寛永20年(1643)初代高松藩主松平頼重公が、合戦当時に義経が丁重に葬ったあとを受けて屋島寺へ続くこの遍路道の傍らに建立しました。
 また、墓は牟礼町王墓に残っています。


 佐藤継信の碑から坂を下り道なりに南下すると、安徳天皇社があります。
 一の谷の合戦で大敗を喫して屋島に逃げた平宗盛が軍司に命じて造営した幼帝・安徳天皇の行宮跡で、安徳天皇の死後この地を霊所として祀っているとのことです。
 また本殿の裏手には、屋島合戦で散った兵士の墓を集めて供養している慰霊碑があります。

 安徳天皇社
 寿永2年(1183)、平宗盛は安徳天皇を奉じて一の谷から屋島に来ました。
 ここは檀の浦の入り江に臨み、後ろには険しい屋島の峰、東に八栗の山をひかえ、戦には地の利を得たところであったので宗盛は行宮を建て将士の陣営をつくりました。安徳天皇社のあたりが行宮跡であったといわれています。


 
        安徳天皇社全景

本殿扁額


慰霊の碑


 高橋より相引川をのぞむ(前方が檀の浦)

 安徳天皇社からもとの道を引き返して、相引川を高橋(たかばし)で渡り高松市に別れ牟礼町へ向かいます。
 高橋の上から眺める相引川は河口間近で、その先が檀の浦に続いています。ただ両岸は完全に埋め立てられて民家が密集しており、合戦当時の面影を偲ぶよすがもないのは残念です。



  《牟礼側の史跡探訪》

 牟礼町に入り、与一公園を抜けて北に行くと「駒立岩橋」があり、その手前を右に折れると「与一橋」があります。
 駒立岩は、那須与一が扇の的を射るとき、荒れる海の中、この岩の上で駒を止めたといわれる巨岩で、与一橋の北側の川の中にあり満潮のときには水に隠れているようですが、訪れた際はちょうどその姿を現しておりました。
 いのり岩は、与一橋の少し東側にあります。与一がこの岩に向かって一心に祈ったとされています。


駒立岩


いのり岩


合戦絵巻・那須与一
 いのり岩
 源平合戦の時、那須与一が平家の船に立てた竿の先の扇の的を射るとき、この岩の所で「南無八幡大菩薩、わけても私の生まれた国の神明日光権現、宇都宮那須大明神、願わくばあの扇の真中を射させ給え」と祈ったと伝えられ、いのり岩と呼ばれています。
「いのり岩」の字は、松平頼重公の臣箕輪野六の書と伝えられています。

 駒立岩
 那須与一がいのり岩の所で神明に祈願し、この岩のあたりまで駒を進め足場を定めて、波に揺れ動く扇の的を狙い射落としたので駒立岩と呼ばれています。
 与一宗高は、下野国の住人で資隆の第十一子、射術に優れ、義経の命を受け見事扇の的を射て、味方、敵方の平家方からも大喝采を受けてその名を後世に残しました。

 いのり岩のところから国道36号線を北上し庵治町の突端まで行けば、平家が合戦に備えて船を隠した「船隠し」があります。今回はそちらはあきらめ、ここから36号線を南下します。
 このあたり一帯は埋め立てられ完全に市街地化していますが、源平合戦のころは海際だったのでしょう。ただどうもその実感が湧いてきません。変な気分で少し歩くと道端に「景清錣引伝説」の地があります(ただし、案内板と石碑があるだけですが…)。
 謡曲では景清の相手は三保の谷の四郎となっていますが、平家物語では兄の十郎となっており、案内板にも美尾屋十郎と記されています。


源氏の方にも續く兵五十騎ばかり。中にも三保の谷の四郎と名のつて。真先かけて見えし處に。平家の方にも悪七兵衛景清と名のり。三保の谷を目がけ戦ひしに。かの三保の谷はその時に、太刀打ち折つて力なく。少し汀に引き退きしに。景清追つかけ三保の谷が、著たる兜の錣をつかんで。後へ引けば三保の谷も、身を遁れんと前へ引く。互いにえいやと、引く力に。鉢附けの板より。引きちぎつて、左右へくわつとぞ退きにける。

 景清の錣引きについては、謡曲「景清」からも一節を引用しておきます。

なにがしは平家の侍悪七兵衛景清と。名のりかけ名のりかけ手捕りにせんとて追うて行く。三保の谷が著たりける。兜の錣を、取り外し取り外し。二三度逃げ延びたれども。思ふ敵なれば遁さじと。飛びかゝり兜をおつ取り。えいやと引く程に錣は切れて。此方に留れば主は先へ逃げ延びぬ。遥かに隔てゝ立ち歸りさるにても汝、恐ろしや。腕の強きと言ひければ。景清は三保の谷が。頸の骨こそ強けれと笑ひて、左右へ退きにける。


景清錣引伝説案内板


合戦絵巻・景清と十郎


 景清錣引伝説の案内板から36号線よりひとつ西側の小道をさらに南下すると洲崎寺があります。源氏軍が負傷した兵を運び込んだという古刹で、佐藤継信の菩提寺となっているようです。
 この寺の境内壁面には源平合戦を刻んだ石の説明板が配置されています。



        洲崎寺
 洲崎寺
 洲崎寺は眺海山円通院と号し、大同年間(806〜)に弘法大師により創建されました。本尊である「聖観世音菩薩」は大師の作と伝えられています。
 源平合戦・長曽我部氏の侵攻により焼かれるなど繁栄と衰退を繰り返し、元禄十二年(1699)に再興され現在に至っています。
 源平合戦時、義経の身代わりとなり討死した佐藤継信の亡がらを、戦火によって焼け落ちた本堂の扉に乗せて源氏の本陣・瓜生ヶ丘まで運ばれたと伝えられており、継信の菩提寺として、毎年三月十九日に慰霊法要が行われています。
 平成十二年に再興三百年を記念して完成した庭園は、苔と石で「屋島檀ノ浦の戦い」を表現し、境内壁面には「扇の的」「弓流し」等の合戦のあらましを刻んだ説明版があります。
 また江戸時代、四国八十八ヵ所霊場を庶民に広め、四国遍路の父と讃えられる真念の墓があります。


屋島檀ノ浦合戦絵図


佐藤継信の討死


那須与一・扇の的


義経・弓流し



悪七兵衛景清錣引



 洲崎寺を後に更に南下します。先ほどの「景清錣引伝説」の石碑と案内板とまるで同じように、「義経弓流し跡」の石碑と案内板が道端にひっそりと立っています。
 この街中の道路際が海の中だったとは、どうもしっくりと来なくて困りますが、まぁ信じる者は救われる(足元を?)と申しますから、信じて進むことといたします。


「その時何とかしたりけん。判官弓を取り落とし。波に揺られて流れしに」「その折しもは引く汐にて。遥かに遠く流れ行くを」「敵に弓を取られじと。駒を波間に泳がせて。敵船近くなりし程に」
敵はこれを見しよりも。船を寄せ熊手に懸けて。既に危く見え給ひしに「されども熊手を切り拂ひ。終に弓を取り返し。元の渚にうち上れば」
その時兼房申すやう。口惜しの御振舞やな。渡辺にて景時が申しゝも、これにてこそ候へ。たとひ千金を述べたる御弓なりとも。御命には代へ給ふべきかと。涙を流し申しければ。判官これを聞し召し。いやとよ弓を惜しむにあらず。
義經源平に、弓矢を取つて私なし。然れども、佳名は未だ半ばならず。さればこの弓を、敵に取られ義經は、小兵なりと言はれんは。無念の次第なるべし。よしそれ故に討たれんは。力なし義經が、運の極めと思ふべし。さらずは敵に渡さじとて。波に引かるゝ弓取の。名は末代におらずやと。語り給へば兼房さてその外の、人までも皆感涙を流しけり。



合戦絵巻・義経弓流し


義経弓流し跡

 義経弓流し跡
 源平合戦の際、義経は勝に乗じて海中に討ち入って戦ううち、脇下にはさめていた弓を海中に落として、平家方の越中次郎兵衛盛嗣に熊手をかけられ危うく海中に落ちかけましたが、義経は太刀で熊手をあしらい左手のムチで弓をかき寄せ引きあげたというところです。
 平家方に拾われて「源氏の大将ともあろう者がこんな弱い弓を使っているのか」ともの笑いになるのをおそれたものだといわれております。



 さらに南下して琴電八栗駅の近くまで来ると「総門跡」があります。安徳天皇が六万寺を行在所としていた頃、海辺の防御に備えて門を構え平家の前哨としていたところ。
 現在残されている衡門は、合戦跡を後世に残さんと初代高松藩主松平頼重公の手によって建立されたものであります。



総門跡全景


 総門跡
 寿永二年九月、平氏は安徳天皇を奉じて六万寺を行在所として(屋島檀の浦の行宮ができるまで)ここで門を構えて、海辺の防御に備えました。総門はこの遺蹟です。
 後、檀の浦に行宮を移してからも、この門を南部の重鎮として大いに源氏軍を防ごうとしましたが、ついに源氏の占領するところとなりました。当時この付近は海浜でした。
 標木は高松藩主松平頼重の建てたもの。碑は野津大将題、黒木欣堂撰書。『夏草や…』の碑文は久保不如帰氏の作。

碑文


衡門


射落畠碑
 総門跡をほんの少し東へ、佐藤継信の忠死を遂げた「射落畠」があります。「胸板をすえて忠義の的に立ち」の石碑があります。
 また継信はみちのくいで湯の里飯坂大鳥城の出身であり、源平合戦800年を記念して、福島飯坂ライオンズクラブの顕彰碑が建てられています。



 射落畠
 寿永四年(1185)二月十九日源平合戦の際、源氏の武将佐藤継信が大将義経の身代わとなり、平家の雄将能登守教経の強弓に射落された所です。昭和六年継信墓所の大修築と共にこの地に柵をめぐらと池泉を作り、射落畠碑と遠祖君乗場薄墨碑を建立し、これをあらわしました。


 琴電八栗駅の西側の踏切を南に越え、牟礼川に沿って少し歩くと神櫛王墓のとなりに佐藤継信の墓所があります。
 この墓は義経が建立し、忠死した継信を丁重に葬ったと伝えられているようです。


佐藤継信の墓地全景


佐藤継信の墓


合戦絵巻・太夫黒
 佐藤継信の墓
 源平合戦の際義経の身代わりとなって戦死した佐藤継信の墓です。
 寛永二十年、松平頼重公が新しく墓石を建ててその忠死を称えました。
 昭和六年五月、継信三十世の孫・山形県人佐藤信古氏が更に大修築を加えて面目を一新しました。
  “胸板をすえて忠義の的に立ち”

 太夫黒の墓
 この墓は継信の墓域内の右奥にあります。
 この馬はもと後白河法皇から義経に賜ったもので、継信の忠死を賞揚する余りに、義経はこの馬を志度寺の覚阿上人に施して菩提を弔わせました。
 太夫黒がたおれて後、ここに埋められたといわれています。


 牟礼川に沿ってさらに南下しJR高徳線の近くまで行くと、長刀泉、菜切地蔵、義経の本陣があった瓜生が丘があります。今回の探訪では(少し疲れたこともあり)そちら方面は割愛するこことしました。
 さて継信の墓から国道11号線を西にとり、途中で155号線へ出てJR屋島駅の付近まで、歩くこと30分程度、義経が屋島を望むこの地で人馬を整え、休息したといわれる「義経鞍掛松」があります。


 義経鞍掛松
 寿永四年(1185)二月平家追討の命をうけた九郎判官義経は、源氏の精鋭を率いて阿波の勝浦より大坂峠を越えて高松(高松町)の里に入り、屋島を臨むこの地で人馬を整え、平家の陣を攻めたと伝えられています。
 その時大将義経がこの松に鞍をかけ休息したというのでこの名が残っています。

  勇将のその名と共に千代かけて
  今にのこれる鞍掛の松

義経鞍掛松


 義経鞍掛松から琴電屋島駅まで、さすがに疲れてようようにたどり着きますと、駅の待合室で朝方屋島寺までのドライブをお願いしたタクシーの運転手さんと偶然にも再会。「朝、お送りしたお客さんですよね。どうでした?」「八栗駅から歩いて来たけど、ほんまにしんどかったわ」という次第にて今回の探訪は終了いたしました。


「今日の修羅の敵は誰そ。なに能登の守教経とや。あら物々しや手並は知りぬ。思ひぞ出づる壇の浦の」 その船戦今ははや、その船戦今ははや。閻浮に帰る生き死にの。海山一同に、振動して。船よりは鬨の聲「陸には波の盾」月に白むは「剱の光」潮に映るは「兜の星の影」 水や空空行くもまた雲の波の。撃ち合ひ刺し違ふる。船戦の駆引。浮き沈むとせし程に。春の夜の波より明けて。敵と見えしは群れ居る鴎。鬨の聲と聞えしは。浦風なりけり高松の浦風なりけり高松の朝嵐とぞなりにける。


(平成17年5月14日・探訪)

 先日、同好の大先輩である大角征矢氏から、上記『屋島』の謡蹟探訪に関してご連絡を頂戴しました(大角氏については「演能統計」の項をご覧ください)。氏は以前高松市(それも屋島の近く)に在住されたことがあり、屋島の古戦場も幾たびか探訪されたようです。この度興味深いお話をいただきましたので、ご紹介します。
(1)相引川について
 謡曲『屋島』に「相引に引く汐の…」と詠われていますが、大角氏のお話によれば、引き潮になるとこの川は東西両側より見事に潮が引くようです(分水地点はどこなのだろう?)。
 ただし「相引川」は正確に言うと、川ではなくて海峡ではないか…。これはわたくしの独りごとです。
(2)壇の浦について(これがメインテーマです)
 屋島にある「ダンノウラ」は木偏の「檀の浦」ですが、謡曲『屋島』では土偏の「壇の浦」と表記されています。大角氏のご意見は、謡曲『屋島』にあっては、あくまでも高松の「ダンノウラ」であり、木偏の「檀の浦」であるべきであると考えるが、どの文献をあたってもすべて「長門の国」の「壇の浦」であるとされている。これは納得できない。どう考えるかというものです
 急遽、手元の岩波書店・日本古典文学大系「謡曲集」を調べてみますと、この註にも確かに「長門国」となっています。いままでさほど真面目に考えたこともなく、どう考えるかと問われても、私見など申せた立場ではありませんが、素人考えを少々申しあげますと…。
 謡曲『屋島』のキリの章句は「今日の修羅の敵は誰ぞ……思ひぞ出づる壇の浦の」に始まり「敵と見えしは群れ居る鴎。鬨の声と聞こえしは。浦風なりけり高松の…朝嵐とぞなりにける」と結ばれています。「群れ居る」は地名の「牟礼」との掛詞であることは明白ですし、「高松の浦風」とくれば、ここは当然「讃岐の国」。「長門の国」が登場するのはあまりにも不自然と言えましょう。となれば必然的に「檀の浦」であるべきです。
 勝手な解釈が許されるのならば、謡曲作者(謡本では世阿弥元清となっていますが、果たしてそうなのか?)もしくは後世の写本の際に(謡曲の章句がどのように伝承されたのか詳しいことは知りませんが)、讃岐高松の「ダンノウラ」を、木偏であるのをうっかりと著名な土偏の表記にしてしまった…、のではないかと考えたりもしますが、これは邪推も甚だしいものかも知れません。
 反対の立場で苦し紛れの「壇の浦」肯定論を申すならば、ワキ僧が訪れたのは屋島の「檀の浦」。そこでの眠りの中に義経の亡霊が現れ、長門の国の「壇の浦」での戦いの模様を回想する。という解釈も成り立たないこともないと思いますが、やはり不自然でしょう。
 決定的に長門の国の「壇の浦」が不利と思われるのは、キリの章句の中の「海山一同に震動して。船よりは鬨の声。陸には波の楯。…」とあり、これはあきらかに屋島での船上の平家に対する陸上の源氏を表わしています。長門の「壇の浦」は源平ともに船上の筈ですから。したがって謡曲『屋島』では、木偏の「檀の浦」と表記されるべきものと考えます。
 なお、ここでいう『高松』は現在の高松町、すなわち古高松地域であり、われわれが一般的に高松と呼ぶ、JR高松駅・高松城(玉藻城)の地域は、天正年間に生駒親正がこの地に封ぜられてからのものだと思われます(歴史博物館などで詳しく調査しておこうと思いながら何もできておりません)。

(平成17年10月12日・追記)


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