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京都粟田口・合槌稲荷神社 〈小鍛冶〉


 「小鍛冶」梗概

 不思議な霊夢を受けさせられた一條院は、三条小鍛冶宗近に御劔を打つようにと命じた。宣旨を受けた宗近は、御劔を打つには自分に劣らぬほどの技量の者が合槌を打つ必要があるが、適切な者もなく、神助を得ようと氏の神の稲荷明神に祈願のため参拝した。そこへ一人の童子が現れ、御劔は必ず成就するであろうと安心させ、和漢の劔の威徳を語った後、通力の身を変じて力を添えようと言って、稲荷山の方に消え失せた。
 帰宅した宗近は、壇の上り祝詞を捧げると、稲荷明神が現れて合槌を打ち、打ち上げた劔を小狐丸と名付け、稲荷山へと帰って行った。

 シテの稲荷明神のつける面は「小飛出」である。「大飛出」が天上の神として神威たけだけしく表現されているのに比べ「小飛出」は顔の幅も細く、あごの突きだしと目のきりりとしまった様子などは、如何にも地上を駆け巡る神威をあらわす敏捷さが強調されている。この面をつけ赤頭をかぶり、狐の輪冠をいただいた明神が勇躍して舞う「舞働」は、刀を打つ所作と共によく調和がとれて、すがすがしくさわやかな空気を舞台いっぱいに躍動させる。このようなさわやかさは、切能のもつ性格の一つともいえよう。

 三条小鍛冶宗近が古くから名高い刀工であったことは知られており、少納言信西入道が愛用していた名剣小狐丸が宗近の作であるという伝説もあったようで、本朝鍛冶考に「宗近一條宇、永延三条小鍛冶と号す、少納言入道信西、蝉丸或は小狐丸とも、則ち此の作也」とある。また宗近の淬刀には、稲荷山の土が常に用いられていたので、稲荷の神助が加わっているという伝説があり、これらを結び付けて本曲が脚色されたものであろう。
         (参考:「観世流大成版一番本」、中村保雄「能と能面の世界」)





粟田口鍛冶町界隈


 この日、京都観世会館にて井上同門定期能楽会が開催され、勝部延和師による『三山』が上演されました。『三山』は観世流では廃曲となっていましたが、昭和60年12月に復曲されたものです。観能の機会もあまりなかったものですから、是非拝見したいと京都まで出向きました。そのついでに少しだけ足を延ばして、観世会館の近くにある『小鍛冶』の謡蹟探訪を実施した次第です。
 京都市営地下鉄の東山駅で下車、平安神宮に通じる神宮道を越えるとすぐに粟田神社があります。この摂社のひとつに「鍛冶神社」が鎮座しており、今回の謡蹟めぐりは、ここ「鍛冶神社」からスタートを切ることといたしました。


「いかにや宗近勅の劔。いかにや宗近勅の劔。打つべき時節は虚空に知れり。頼めや頼め。たゞたのめ
後シテ「童男壇の。上に上り  「童男壇の上に上つて。宗近に三拜の膝を屈し。さて御劔の鐡はと問へば。宗近も恐悦の心を先として鐡取り出し。教への鎚を。はつたと打てば  シテ「ちやうと打つ  「ちやうちやうちやうと。打ち重ねたる鎚の音。天地に響きて。おびたゝしや
ワキ「かくて御劔を打ち奉り。表に小鍛冶宗近と打つ  シテ「神體時の弟子なれば。小狐と裏に鮮かに  「打ち奉る御劔の。刃は雲を乱したれば。天の叢雲ともこれなれや  シテ「天下第一の  「天下第一の。二つ銘の御劔にて。四海を治め給へば五穀成就もこの時なれや。即ち汝が氏の神。稲荷の神體小狐丸を。勅使に捧げ申し。これまでなりと言ひ捨てゝ。また叢雲に。飛び乗りまた叢雲に。飛び乗りて東山。稲荷の峯にぞ歸りける




 《鍛冶神社》 京都市東山区粟田口鍛冶町 粟田神社内

 三条通に面した参道入口の社伝によりますと、この地には第5代孝昭天皇の皇子天足彦国押人命を祖とする一族が住み、鉱物を穿ち、粟や瓜を主食として住んでいたが、熱田神宮が奉祀されると、この一族は熱田の社人として移住し、土地名を残すだけとなったそうです。このように古くからこの地は鍛冶とは縁が深かったもののようです。
 当社は第56代清和天皇の貞観18年(876)に、藤原興世が勅を奉じて勧請したことに始まり、その後天台座主東陽坊忠尋大僧正が永久年間(1113~18)に再建するが、応仁の乱で焼失、明応9年(1500)に吉田兼倶が再興したといわれています。
 参道入口には、また「粟田焼発祥之地」の碑が建てられていました。


三条通りに面した粟田神社参道入口

粟田神社参道


 一の鳥居を過ぎ、二の鳥居をくぐると石畳の登り坂となり、すぐ左手に「鍛冶神社」の小祠が鎮座していました。ここは粟田口鍛冶師の鍛冶場の跡で、数多くの名刀が造られたところだそうです。
 謡曲『小鍛冶』の主人公(ワキ)である三条宗近の作には、「天下五剣」の中でも最たるものとされる「三日月宗近」があります。現在は東京国立博物館に所蔵されており、国宝に指定されているものです。以下 Wikipedia によれば、

 足利将軍家の秘蔵の名刀として継承され、永禄8年(1565)、松永久秀と三好三人衆が二条御所を襲撃して将軍足利義輝を殺害した(永禄の変)際には義輝はこの三日月宗近を振るって奮戦したと伝えられている。変の後に戦利品として三好政康の手に渡ったとされ、政康から豊臣秀吉に献上された後、豊臣秀吉の正室高台院(寧子)が所持し、その後遺品として徳川秀忠に贈られ、以来徳川将軍家の所蔵となっていた。

 この「三日月宗近」もここで鍛えられたものでしょうか。



鍛冶神社

 鍛冶神社の右手には「太刀」と題して、明治天皇の御製の歌碑が建てられています。

   真心をこめて錬ひしたちこそは乱れぬくにのまもりなりけれ

 御製の歌の「錬」の字は判読不能でした。間違っていると思われます。「真心を込めて鍛へし太刀こそは乱れぬ国の護りなりけれ」の意と思うのですが…)


鍛冶神社の碑

明治天皇御製の歌碑


 参道の石段を登りつめると粟田神社の境内にでます。本殿の前にある拝殿には「出世えびす」が飾られており、数名の参拝者が記念撮影に余念がありません。
 当社の本殿・幣殿は、文化2年(1805)に焼失の後、文政6年(1823)に再建されたもの。また拝殿は元禄16年(1703)に建てられたと伝えられ、いづれも京都市の有形文化財に指定されています。


本殿

ご朱印


 社務所の左隣には能舞台が建てられていました。社務所のお話では、以前台風により橋掛が破壊され、修復されないままになっているとのこと。大きな白狐の張りぼてが、舞台狭しと鎮座ましましておりました。
 社務所で朱印を頂戴し、三条宗近や合槌稲荷のことなどを伺って、次なる目的地、三条宗近邸跡の碑がある仏光寺本廟にと向かいました。


拝殿と本殿

能舞台



 《仏光寺本廟》 京都市東山区粟田口鍛冶町

 粟田神社の石畳の参道を下り、二の鳥居のところを東に折れて、数分ほど歩くと仏光寺本廟の山門に到着します。
 仏光寺本廟は、親鸞聖人の御廟所を中心とした真宗仏光寺派の墓所で、同派の総本山となっています。宗祖親鸞聖人の御廟の前、2本の五葉松に挟まれて、「三条小鍛冶宗近之古跡」の碑が建てられています。


仏光寺山門

親鸞聖人廟所


 碑の横に建てられた京都市の「三条小鍛冶の古跡」の説明書きには、以下のように記されています。

 宗近は平安中期の刀匠で姓は橘、信濃守粟田藤四郎と号し、東山粟田口三条坊に住したので三条小鍛冶とも称した。
 名刀子狐丸をはじめ幾多の刀剣を造ったが、現存するものとして三日月宗近などがある。祇園祭の長刀鉾の鉾頭の長刀は、宗近が娘の疫病治癒を感謝して鍛造し祇園社に奉納したものといわれ、特に有名である。
 拾遺郡名所図会によると、佛光寺本廟境内に刀剣を鋳るときに用いた井水があったといわれる。(都名所図会では知恩院山門の傍とある)
 なお、粟田口鍛冶町にある粟田神社境内に鍛冶社があり、また神狐の合槌によって名刀を鍛えたと伝えられる合槌稲荷社が粟田口中ノ町にある。



「三条小鍛冶宗近之古跡」の碑


 「宗近の古跡」というからには、この地が宗近邸のあったところと思われるのですが、この点に関して寺務所で伺ったところでは、どうも明確な回答が得られませんでした。
 先ほどの粟田神社でお聞きしたところでは、粟田社とここ仏光寺の中間に華頂山良恩寺という寺院があるのですが、この良恩寺の境内あたりに宗近邸があり、宗近邸の碑もそこに建てられていたようだが、良恩寺の境内を整地した際に、碑は現在の仏光寺に移されたということのようですが、真偽のほどは定かではないようです。

 仏光寺から三条通に出て西へと足を返し、合槌稲荷社に向かいました。




 《合槌稲荷神社》 京都市東山区粟田口中ノ町

 合槌稲荷神社は、三条通を挟んで粟田神社の斜め北側の通りに面して、参道の入り口があります。民家の間の狭い小路に赤い鳥居がずらりと賑やかに並んでいます。鳥居をくぐり小路の突きあたりを左に折れた民家の突きあたりの袋小路に、これまた朱塗の小祠がありました。

ワキツレ「これは一條の院の勅使にてあるぞとよ。さても帝今夜不思議の御告ましますに依り。宗近を召し御劔を打たせらるべきとの勅諚なり。急いで仕り候へ  ワキ「宣旨畏まつて承り候。さやうの御劔を仕るべきには。我に劣らぬ者合槌を仕りてこそ。御劔も成就候べけれ。これはとかくの御返事を。申しかねたるばかりなり  ワキツレ「げにげに汝が申す所は理なれども。帝不思議の御告ましませば。頼もしく思ひつゝ。はやはや領状申すべしと。重ねて宣旨ありければ  ワキ「この上は。とにもかくにも宗近が  「とにもかくにも宗近が。進退こゝにきはまりて。御劔の刃の乱るゝ心なりけり。さりながら御政道。直なる今の御代なれば。若しも奇特のありやせん。それのみ頼む。心かなそれのみ頼む心かな
ワキ「言語道断。一大事を仰せ出されて候ものかな。かやうの御事は神力をたのみ申すならではと存じ候。某が氏の神は稲荷の明神なれば。これより直に稲荷に參り。祈誓申さばやと存じ候


 帝より御劔を打てとの宣旨を受けた宗近ですが、我に劣らぬ者の合槌がなくては叶わぬことと、進退ここに窮って、氏神である稲荷明神に祈誓に向かいました。そのとき天より声がかかり、稲荷明神の化身である童子が登場。宗近に力を添えて、無事二つ銘の御劔を打ち終えます。


合槌稲荷明神参道


謡曲史跡保存会の駒札


 合槌稲荷神社の参道入口には、謡曲史跡保存会の駒札が建てられています。

 ここは刀匠三条小鍛冶宗近が常に信仰していた稲荷の祠堂といわれ、その邸宅は三条通の南側、粟田口にあったと伝える。
 宗近は信濃守粟田藤四郎と号し、粟田口三條坊に住んだので三条小鍛冶の名がある。稲荷明神の神助を得て名劔小狐丸をうった伝説は有名で、謡曲「小鍛冶」も、これをもとにしてつくられているが、そのとき合槌をつとめた明神を祀ったのがここだともいう。
 なお、宗近は平安中期の人で、刀剣を鋳るのに稲荷山の土を使ったといわれる。

 稲荷明神の参道は私道となっており、夜間の参拝は遠慮するようにとの注意書きも掲示されてありました。


合槌稲荷明神社


 合槌稲荷明神に参拝して『小鍛冶』の謡蹟探訪を終え、近くの食堂でニシンそばの昼食とし、京都観世会館で勝部延和師の『三山』を観能、久し振りに京都での謡曲行脚の一日を過ごしました。



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(平成22年2月20日・探訪)
(平成22年3月14日・記録)