ホークス誕生から栄光まで苦難の道のり

〜The hardship histories of Fukuoka Daiei Hawks〜



 

 
 
 九州に舞い降りた鷹

 988年、流通業界最大手のダイエーが、永年にわたる低迷により球  団運営が行き詰まっていた南海ホークスを買収。
 本拠地を大阪から福岡に移し、同年11月1日に福岡ダイエーホークスが正式に誕生。
 初代監督は、南海ホークス監督だった杉浦忠がそのまま就任した。
 師走の12月には、エメラルド・グリーンを基調とした球団旗とシンボルマーク、三宅一生デザインのユニホームを発表した。
 また年明け早々、メジャーリーグのドジャースがニューヨークからロサンゼルスに本拠地を移した時と同じように、JALのチャーター機で福岡空港に雄々しく降り立った。文字通り鷹が、福岡の地に舞い降りた瞬間であった。
  また、新生球団らしくハワイ・カウアイ島でのキャンプを行うなどホークスに対する期待は日増しに高まっていった。

 


 
生え抜きの若手が台頭 1989年

 そして迎えた4月8日の記念すべき日本ハムとの開幕戦、エース山内孝徳で臨むも4−6でサヨナラ負け。
  続く第2戦もサヨナラ負けという苦難のスタートとなった。
 ようやく第3戦で先発加藤伸一が力投し、福岡ダイエーホークスとして記念すべき初勝利をあげた。
 地元・平和台での開幕戦は、奇しくも11年前までこの球場の主だった西武ライオンズ。工藤との手に 汗握る投手戦を2−1で見事に制した山内孝徳は、試合後感激の余り大粒の涙を流した。
 この年の成績は、59勝64敗7分勝率.480の4位に終わった。

 しかし、佐々木誠、岸川勝也、湯上谷宏(後にьuと改名)ら生え抜きの若手選手が台頭。
 後半戦を6割を超す勝率で戦い抜いたホークスにファンは、大きく期待をふくらませた。

 この年、南海ホークス時代からの指揮官・杉浦忠監督で戦い終えたホークスは、10月半ば阪神、西武でホームランバッターとして人気を誇った田淵幸一を監督に迎えることとなる。

  


 田淵監督就任、そして記録的大敗 1990−1992年
 
 
 90年2月、新キャンプ地・沖縄県読谷村で春季キャンプがスタートした。
 
 しかし、シーズンイン後の苦闘を暗示するかのように雨にたたられたキャンプとなった。
 高まるホークス人気のおかげで観客動員は初年度を上回ったものの、シーズン突入と同時に黒星を重ね続け、結局、41勝85敗4分、勝率.325というホークス史上ワーストの成績で最下位に終わった。
 このオフ、記録的な大敗の責任をとる形で鵜木球団社長が退社。
 
 一方、巻き返しを図る田淵監督は積極的なトレードを断行。阪神との間で、藤本修二、吉田博之ら3人を交換要員にして池田親興、大野久ら4人を獲得。また、南海ホークス移転時にオリックスへ移籍した門田博光を入団させた。
 さらに、権藤博を投手コーチ、広瀬淑功を守備・走塁コーチに招くなどコーチ陣の強化も図り、新キャンプ地である高知市営球場で田淵ダイエー2年目がスタートした。
 しかし、この年も結局53勝73敗4分勝率.421の5位とファンの期待を大きく裏切った。
  
 田淵監督の契約最終年となる3年目、オリックスを自由契約になったブーマー・ウェルズを獲得して補強を図った。
 門田は、いくつかの個人記録を塗り替え、ブーマーも期待にこたえる働きを見せた。
 また、期待の若鷹・佐々木誠が首位打者と盗塁王のタイトルに輝くなど個人レベルの記録には目を見張るものがあった。
 しかしながら、チームはこの年も57勝72敗1分勝率.442の4位に終わり、南海時代から15年連続Bクラスという記録を塗り替えた屈辱的なシーズンだった。
  
 この年限りで、田淵監督は、門田選手、ブーマー選手とともに球団を去ることとなった。

 


  福岡ドームオープン、球団改革に着手 1993−1994年

 球団譲渡後、4シーズンを経ても遅々と進まぬチーム強化を図るため、中内オーナーは 、なんと西武ライオンズ管理部長の根本陸夫を専務取締役兼監督(ゼネラルマネージャー)として迎え入れた。
 さらにプロ野球経験のない有本義明を二軍監督に招へい。
 「根本さんには、球団の基礎をつくってもらう」という中内オーナーの号令のもとチーム改革が進められることとなった。

 93年のキャンプは、初日から紅白戦を行い、キャンプ中の昼食はなし、休日なはし、という異例続きなものであった。
 3月31日には、日本初の開閉式ドーム・福岡ドームの竣工式が行われ、徐々に開く屋根のすきから差し込む日の光にどよめきがわき起こった。

 シーズン前には、「130試合すべてを勝ちに行く」とぶちあげた根本監督であったが、キャンプから選手の技量・適性を把握することに終始、シーズン中もほぼ放任状態でワンシーズンを棒にふる大胆さに周りは度肝を抜かれたものの、終わってみれば45勝80敗5分勝率.360でぶっちぎりの最下位だった。

 

 
 ところが、シーズン終了後西武との間で電撃トレードが発表される。
 選手会長への就任が予定されていた佐々木誠と村田勝喜らの投打の主軸を放出し、秋山幸二、渡辺智男らを獲得する3対3のトレードを敢行。
  
 「チームを変えるには、まず人を変えるしかない」という根本流の考え方のもと、ダイエーの大改革に着手した瞬間であった。また、阪神から球界初のFAで松永浩美を獲得するなどチーム改革を急速に進めていった。
  
 2年目のシーズンの開幕オーダーは、1番松永、2番はバントをしない2番打者山本、4番秋山に新外国人トラックスラー、ライマー、大学NO1スラッガー小久保が加わった豪華なものであった。
 この年、開幕からイケイケ野球を身上に打ち勝つ豪快な野球で快進撃を続け、オールスター前には貯金を最多の「14」にまで伸ばし、首位西武に0.5差にまでつめよる場面もあったが、オールスター後、松永がけがで戦線離脱するやチームも失速。
  
 終わってみれば、69勝60敗1分勝率.534で勝率でわずかに近鉄に及ばず17年連続Bクラスに甘んじる結果となった。
 しかし、この年イケイケ野球が多くのファンを魅了し、観客動員数は新記録となる252万5000人を記録した。

 

 

 王監督就任、高まる期待と挫折 1995年−1998年

 ホークスファンの期待が大きく高まった94年のオフ、「ON対決」という根本の壮大なプランのもと、「世界のホームランキング」王貞治が監督に就任。
 就任発表の席上、「九州のファンが望む打ち勝つ豪快な野球に緻密な野球を取り入れていきたい」と力強く抱負を語った。
 この年、西武から工藤公康と石毛宏典をFAで獲得、またメジャーのホームランバッター、ケビン・ミッチェルを入団させるなど「ON対決」のムードはいやがうえにも盛り上がった。

 迎えた4月1日の対西武戦、3塁コーチャーズボックスに立った王監督の前で、ミッチェルが来日初打席で満塁ホームランという離れ業をいきなり披露し、試合も延長10回の末11−10で王監督の目指す打ち勝つ野球で初勝利を収めた。
 4月を14勝10敗の2位で乗り切ったものの、5月以降すべてが暗転する。
 開幕戦で派手なデビューを飾ったミッチェルが再三の欠場に加え、無断帰国を繰り返し、結局37試合に出ただけで解雇。
 夏場には、松永、山本の両ベテランが故障によるリタイヤでチームは失速。
 6連敗でシーズンを終わり、結局、「ON対決」どころか54勝72敗4分勝率.429の5位に終わり、ファンを失望させた。
  
 翌96年も開幕から投打の歯車がかみ合わず、下位を低迷。
 期待が大きかった分ファンの失望も大きく、5月8日日生球場での近鉄戦で連敗した後、送迎バスに生卵がぶつけられるという「事件」まで勃発。
 それでもチームは奮い立たず、一度も首位戦線に加わることなく54勝74敗3分勝率.422の最下位に沈んだ。
  
 このオフ、「反攻」に向け精力的に新人補強に動く。
 ドラフトでは、「20世紀最後の大物スラッガー」と言われた井口忠仁を1位で獲得、2位で「アトランタオリン ピックの4番打者」松中信彦、3位で福岡6大学のNO1スラッガー柴原洋をそれぞれ獲得するなど大物ル−キーを総取りする補強を行った。
 
 97年も開幕から4連勝と好調なスタートを切ったものの、連敗体質が直らず後半戦いつもの息切れでこのシーズンも63勝71敗1分 勝率.470の4位でついに20年連続Bクラスという不名誉な記録を更新した。
  
 98年、開幕10試合を8勝2敗という好スタートを切ったホークスは、シーズン終了まで優勝争いに加わり残り5試合を全勝すれば優勝に手が届くというところまできたもののまさかの5連敗。
 結局、オリックスと同率の3位に終わったうえに、地元開幕権すら手にすることができなかった。
 
 追いうちをかけるように、このオフ地元紙がホークスのサイン盗み疑惑を実名で報道され、球界全体に激震が走った。
 99年年明け早々、コミッショナー事務局特別調査委員会においてなんとか”灰色決着”。
 しかし、この一連の騒動と前年、目前に迫った優勝を逃した悔しさがチームを団結させることとなる。

 


 悲願のリーグ優勝、そして日本一 1999年

 99年のシーズンも開幕の西武戦を1−0でサヨナラ負けを喫したものの、まずまずのスタートを切る。
 ところが、4月30日根本陸夫球団社長が急逝。

 根本社長の霊前に初優勝を誓い、一層の団結心を強くしたホークスナインは、その後奇跡的な勝利を収めていく。

 エース武田の抜けた後を彗星のごとく現れた2年目の星野、永井両投手がその穴を補って余りある活躍。
 また、力がありながらここ数年パッとしなかった若田部が復活。
 
 5月9日に首位に立つと、7月7日の一日だけロッテに首位を明渡しただけで、首位を守りつづけた。

 圧巻は、9月19日のロッテ戦、黒木の力投で延長戦までもつれ込む投手戦となったが、代打坊西が内野安打を放ち、11回目のサヨナラ勝ち。
 8月31日に点灯したマジックナンバーを「神がかり的な」戦いぶりで一つ一つ減らしていった。
  
 そして、9月25日、デーゲームで西武が敗れマジックナンバー1となっていたホークスは、日本ハム相手に 一時逆転を許すものの、小久保、井口のホームランで再逆転し、篠原、ペドラザの勝利の方程式でついに悲願のリーグ制覇を果たした。
 城島、小久保らの選手だけでなく、コーチ、裏方さんの顔は涙でくしゃくしゃ。まさに涙、涙の初優勝だった。
 11年前に福岡の地に降り立った鷹が長い雌伏を経てようやく大きく羽ばたいた瞬間であった。
  
 10月23日からは、本拠地福岡ドームにセリーグの覇者・中日ドラゴンズを迎え日本シリーズが開幕。
 初戦は、工藤の見事な投球で3−0の完封勝ち。
 第2戦は、若田部の乱調で失ったものの、舞台をナゴヤドームに移した第3戦は、永井のノーヒットピッチングで5−0、続く第4戦も星野が負けじと力投し3−0と篠原−ペドラザのリレーでシーズン中どおりの試合運びで連勝し、一気に王手をかけた。
 第5戦は、佐久本が先発し先制点を奪われるものの3回表相手のミスに乗じて一気に6点を奪い、結局最後も篠原、ペドラザの勝利の方程式でしめ6−4であっさり日本一に輝き、敵地で再び王監督が宙に舞った。
 苦節11年、南海時代にまで遡ると35年ぶりの日本シリーズ制覇に多くのファンは酔いしれた。