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広瀬 淑功 昭和11年8月27日生 広島県出身
大竹高校−南海ホークス(昭和30年〜55年)
昭和53年から南海ホークス監督
通算 2190試合 2157安打 131本塁打 705打点 596盗塁、
打率.282
チョロの愛称で親しまれた天才外野手。野村、杉浦とともに南海黄金期を支えた看板選手。
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連続6打席連続ヒットでデビュー 広瀬は、昭和30年に広島の大竹高校から入団。入団当初は、投手だったが、ショートに転向。そのデビューは、いまだに当時の関係者の間で語り草になっているほど鮮烈なものであった。
昭和31年4月26日の阪急戦でデビューして以来、代打などで7月31日の大映戦まで、連続6打席6安打をマークして、各球団から注目された。
やがてセンターに転向した彼は、南海打線のトップを打ち、ファンからは「鷹の爪」とか「韋駄天打者」と呼ばれ、杉浦投手や野村捕手とともに南海ホークスの看板選手の地位を築いていった。
獲得したタイトルは、首位打者1回、盗塁王を昭和36年から5年連続で受賞している。
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右打者最高打率で首位打者獲得 東京オリンピックが開催された昭和39年こそ、23年に及ぶ選手生活で最高のシーズンとなった。
141試合で456打数167安打.366という高打率で首位打者に輝いた。シーズン前半には、「史上初の4割打者誕生か」と注目された年であった。
前半戦.399だった打率が、右手の腱鞘炎により後半戦は.286。
ナイター終了後に、病院を駆けずり回りあらゆる治療を続けながら試合に出場しつづけた。こうした影響もあって.366まで打率が低下したもののこの打率は、パリーグ歴代首位打者のなかで右打者では最高打率となっている。
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走りも走ったり、連続31盗塁 また打つだけではなく、出塁すると疾風のごとく盗塁を決めた。
相手球団の監督は、”広瀬を1塁に出すと2塁打されたも同じ。それだけじゃなく、ピッチャーは神経質になって投球リズムを狂わされるし、内野もガタガタに揺さぶられる”と嘆いた。
3月28日の西鉄戦で2盗を決め、このシーズン初めての盗塁を記録すると、5月31日の東映戦まで連続31盗塁というプロ野球記録を作った。
それまでは、先輩の木塚忠助が25年にマークした連続21盗塁成功が最高記録であった。
連続盗塁を決めているなかで話題になったのが、4月29日の東京戦。1塁走者となった広瀬は、坂井勝二投手の13球にもおよぶ執拗な牽制をものともせず、2盗を決めた。
広瀬は、”わしは、投手のモーションのクセを頭に叩き込んでいるので、牽制球を投げてくるか、打者に投球するか分かる。ピッチャーがバッターに投げるのが分かっていながら、何も1塁にじっとしている必要はないやろ。走った方がええやろ。”というのが持論であった。
ノーサインで走る広瀬に鶴岡監督は、”ほんまチョロチョロするやつやな。でもチョロはようやっとるで。”と目を細めた。
彼のニックネーム「チョロ」は、鶴岡監督が名づけたものだが、そのニックネームどおり塁上ではよく動いては、相手投手をけん制し、盗塁を決めた。
しかし、やみくもに走ったわけではない。個人記録のために走る気などさらさらなかった。
”走ろうと思えばいつでも盗塁できる。でもワシはチームのプラスにならない盗塁はせん。個人プレーはしたくないんや。盗塁するにしてもバッターがピッチャーに追い込まれないうちにするのがエチケットやで。”というのが、彼の口癖であった。
マスコミは、広瀬を”職人”と称したが、次のバッターに対する”気配り”があった。
これを証明するように、盗塁企画数81回のうち、投球の1球目に走ったのが41回、2球目が23回と全体の8割が2球目までに走っていたわけである。
しかも、盗塁死がわずか9回。81回のうち、66回は得点差が2点差以内という接戦で走っているのが注目される。
首位打者と盗塁王を獲得した昭和39年には、110得点のパリーグ新記録も作っている。
打って、走って、そして後続打者の一撃でホームを駆け抜けていったのである。
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不運な監督時代 23年間ダイヤモンドを駆け抜けた広瀬が引退を表明したのは昭和52年のシーズン終盤である。その年、野村が監督を解任され、第9代南海ホークス監督に就任した。
野村を師と仰いでいた江夏投手、柏原内野手も広島、日本ハムへそれぞれトレードされることとなる。
野村というスーパースターが去り、広瀬自身も引退。そして江夏、柏原という投打の主軸が抜けたのだから、前途多難である。「あの顔ぶれで勝つというのが無理やで。」というOBの言葉には、実感がこもっていた。
”泥まみれの野球”をスローガンにチームの団結を呼びかけたものの、最下位、5位、最下位という成績で 広瀬南海はわずか3年で幕を閉じた。
南海球団譲渡の際広瀬は、”ホークスの上に南海という冠がついていたから僕の青春があった。それがダイエーという冠に変わると何もかもなくなってしまうような気がする。”とさみしそうに語っていたのが印象に残っている。
現在は、故郷の広島でお住まいだとか...
球団譲渡に続き、大阪球場撤去、鶴岡親分逝去と南海ホークスの面影がひとつづつ消えていくなか、その心中はいかがなものなのか...
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