強打、好守、俊足の名一塁手

〜仏の徳さん・飯田徳治〜

 

 

 

 飯田 徳治

 神奈川県出身
 旧制浅野中−東京鉄道管理局−南海ホークス(昭和22年〜31年)
 国鉄スワローズを経て、昭和44年に南海ホークス監督
 通算 1265試合 1410安打 151本塁打 778打点 打率.295

 どんな難しい打球もなんなくさばく守備は天下一品。
 強打、好守、俊足と3拍子揃った名一塁手で、蔭山、木塚、岡本とともに”百万ドルの内野陣”として華麗なプレーでファンを魅了した。
 昭和23年から33年まで1246試合連続出場を記録した、元祖”鉄人”。
 平成12年6月19日に逝去。
   

 

 初めての一人旅、鈍行で大阪の地へ

 横浜の旧制浅野中学で投手で4番打者として活躍した飯田は、東京鉄道管理局へ。終戦の翌年、東京遠征中の鶴岡監督が下駄履きで戸塚球場に東京鉄道管理局の練習を見に訪れたことが南海ホークス入団のきっかけとなる。
 
 当時の東京鉄道管理局の西垣監督(後にロッテ代表)と鶴岡監督がともに法政OBということもあって、話はトントン拍子で進み南海ホークスへの入団が決定。
 昭和21年12月1日に契約(契約金1万5千円、月給2千5百円)。
 
 入団が決まってはじめての一人旅。当時は、物資不足のピークでヤミ売買の世の中。
 ヤミ列車の鈍行に乗って長時間かかって大阪へ着いたものの右も左も分からず、大阪駅で南海本社へはどういったらいいのかと聞いたら、”地下鉄で行きなはれ。ナンバで降りて階段を上がったところが南海だ。”と教えてもらって、やっとたどり着いたらしい。
 
 当時、合宿費はいらなかったもののすべてヤミ取引の時代。
 インフレの中で2千5百円の月給では、生活が苦しかったらしく、野球用具は、全部自費だったので実家には仕送りもできない状況だったらしい。
 そんななかで一番うれしかった思い出として、昭和24年か25年頃、西宮球場で変則ダブルヘッダーで巨人と戦い多田投手から逆転サヨナラホームランを放って賞金1万円をもらったことが忘れられない、と振り返っている。



 くやしい日本シリーズでの敗戦

 入団2年目には、すでにレギュラー選手とし定着し、押しも押されもせぬ球界を代表する名プレーヤーとしての地位を固めていく。
  
 だが、飯田は自らの長い野球人生を振り返って、南海ホークス時代に日本シリーズで巨人に何度挑戦しても一度も勝てなかったことが、なによりもくやしかったと語っている。
 特に頭にこびりついて離れないのは、昭和30年の日本シリーズだという。
 
 リーグでは、昭和26年から3連覇を成し遂げるなど覇者として君臨していたものの、宿敵・巨人にはそれまで3度挑戦していずれも敗退を繰り返していた。
 
 このシリーズは3勝1敗まで巨人を追い詰め、あと1勝で日本シリーズ初制覇というところまできて、敵地で迎えた第5戦、飯田は扁桃腺を腫らして39度の熱があったにもかかわらず出場し、悲願達成に執念を見せる。
 
 しかし、この試合巨人・水原監督が若手投手を投入する奇襲作戦に対して、南海は入団2年目に早くもエースとして君臨していた宅和本司が先発するもあえなく5−6で敗戦。
 ”仏の徳さん”といわれた飯田であったが、宅和が打たれてダッグアウトへ帰ってきた時にグローブを叩きつけて怒ったらしい。
 というのは、これまで日本シリーズでは多くのファンの目の前でみじめな姿をさらしながら巨人の場一周を何度も見守るというくやしい経験を味わっている飯田にとって、このシリーズはなんとしても第5戦で決めたかったからだという。
 
 結局、このあと大阪球場に帰ってからも宿敵・巨人に連敗し、悲願達成は目前で手中から去ってしまうことになる。
 巨人が優勝を決めた後、ロッカールームへ引き揚げてきたナインは敗れた悔しさに恥も外聞もなく泣きじゃくったという。

 松井、蔭山、木塚、もちろん飯田も...。
 
 飯田は言う、”プロの世界で勝った負けたで涙を流すことはおかしいかも知れない。しかし、みんながゼニカネを無視して争ったここ一番の大勝負に敗れて涙するくやしさ。その心境は勝ちたい一念で野球と取り組んできた当時の南海ナインの野球姿勢が男泣きを誘発したんだと...。”



 元祖鉄人、そして名門南海の監督として復帰

 飯田は26年、27年に打点王、昭和30年にはMVPに輝くなど名一塁手の名前を欲しいままにするとともに常勝南海の中心選手としてチームの快進撃を支えた。
 
 昭和32年に国鉄スワローズに移籍した飯田は、その年さっそく盗塁王を獲得するなどその後も活躍を見せた。
 
 しかし彼の野球人生において特筆すべきは、入団2年目の23年から33年まで約11年間にわたって1246試合連続試合出場という前人未到の大記録をうちたてたことである。
 これは、鉄人・衣笠祥雄(広島)に破られるまで、プロ野球記録として永年にわたって金字塔として燦然と輝いていた。
 
 昭和38年限りで現役を引退した後、41〜42年とサンケイアトムズの監督に就任、昭和43年には、ヘッドコーチとして古巣・南海に復帰、鶴岡監督が勇退した翌昭和44年南海ホークス第6代監督に就任する。
 
 この年は、話題のルーキーとして法政大学の三羽ガラス・富田勝、近大の藤原満らが入団し大いに期待を抱かせた。
 
 しかし、さっそく悪夢が襲うこととなる。飯田・南海の致命傷になったのは、オープン戦の最終戦、後楽園球場での巨人戦でエース・皆川がバントをしようとして右手小指を骨折したことであろう。
 前年に31勝10敗と最多勝利投手の皆川が開幕1週間前に全治3か月の負傷では、監督の目の前が真っ暗になるのも無理はない。
 このあとも、三浦、村上、新山らの主力投手が次々と倒れたとあって、終わってみれば50勝76敗4分、勝率.397で戦後初の最下位に転落。まさに、アクシデントに終始した1年であった。
 
 優勝か、しからずんば2位と常に栄光の座を担ってきた南海ホークスだけに”もう1年飯田に...”という声もあったようであるが...。
 生粋のハマッ子で曲がったことの嫌いな性格、そのまじめな人柄は周囲から”仏の徳さん”と親しまれたが、その性格が一軍の将としては不幸にも災いとなったのであろうか...。