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門田 博光 昭和23年2月26日生 山口県出身
天理高校−クラレ岡山−南海ホークス(昭和45年)
通算 2159試合 2180安打 478本塁打 1405打点 50盗塁
打率.291
永年パリーグの4番打者として君臨。
アキレス腱切断後も、不死鳥のように復活。
アーチストとして大きく飛躍し、低迷する球団にあって大いにファンに希望を与えた。
40歳にして、本塁打、打点の2冠王を獲得した昭和63年のシーズンには、サラリーマンの希望の星として、社会面でも取り上げられた。
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あこがれのプロ野球デビュー
門田は、昭和44年暮れのドラフトで南海ホークスの2位指名を受け、小学生の頃からあこがれていたプロ野球選手となる。
実は、この前年彼は、阪急ブレーブスから12位で指名を受けているが、体が小さいことを理由に入団を拒否している。
門田が阪急の指名を受けた43年には、加藤秀司が阪急に入団しているが、その加藤は前年に南海からドラフト10位で指名を受けている。パリーグの看板打者としてしのぎを削り、昭和62年に同じ南海でプレーした両者は、もしかしたらお互い全く異なった道を歩む可能性もあったわけである。
門田は、入団2年目の昭和46年に早くも打率3割をマークしたうえ、ホームランも野村の29本を上回る31本を放ち、打点王のタイトルも獲得、「新しい長距離砲」の出現と騒がれた。 |
アキレス腱断裂、そして再起
その後、南海ホークスの中軸打者としてだけでなく、オールスター戦ではパリーグの4番を任されるなど押しもおされもせぬパリーグの看板打者として活躍することとなるが、昭和54年の春のキャンプでアキレス腱を断裂、選手生命の危機に見舞われる。
それでもこのシーズン終盤に不死鳥のごとく復活、19試合に出場し二塁打とホームランそれぞれ2本ずつ放ちその雄姿を待ちわびたファンをホッとさせた。
翌昭和55年には、10年間慣れ親しんだ背番号を「27」から「44」に変更。
この「44」という数字は、門田の母が亡くなった年齢をだぶらせたものである。自らの復活を亡き母に誓うという思いをこめたものであったのだろうか。
この年、アキレス腱をかばうあまり肉離れを起こしながらもかつてのパリーグの4番打者の看板どおりのバッティング披露。痛む両足をかばいつつ打率.292、本塁打41、打点84でパリーグ初のカムバック賞受賞。
傷だらけの鷹が再び大空に舞い上がった。 |
打てばホームラン!月間16本塁打の新記録 数々の本塁打記録を塗り替えてきた門田だが、最も印象に残っているのは昭和56年7月の月間本塁打記録の更新である。
最初の一発は、7月1日、日生球場での近鉄とのダブルヘッダー第1試合。石本投手から左対左をものともせずライトスタンドへ打ち込んだ。続く第2試合でも、4回と6回に藤原投手から2打席連続のホームラン。
この試合が前期の最終戦であったが、門田の勢いは後半戦に入っても止まらなかった。
後期開幕日の4日、阪急戦で今井投手からライトスタンドヘ運ぶと、翌5日は、エース山田を餌食に。
門田は、続く西武戦でも投手陣の揺さぶりをものともせず、7日に松沼弟からライトスタンドに2発叩き込むと9日には松沼兄からもライトスタンドへ、兄弟揃って撃沈した。
このあと10日から12日までは、川崎球場へ移動してロッテとの4連戦をまじえるが、なんとロッテの繰り出す4投手から1本ずつホームランを記録した。
再び大阪に戻って迎えた近鉄戦では、エース鈴木、久保投手からそれぞれホームランを放った。
7月にまだ対戦していなかった日本ハム戦では、22日間柴投手から15発目のホームランをライトスタンドに運び月間本塁打日本記録に肩を並べた。
このあと、オールスター戦で1週間の休みがあったものの門田の気力は衰えなかった。球宴明けの31日、西武の杉本投手から16発目を放ち、ついに日本新記録をマークした。
もし、球宴がなかったら20本以上のホームランを記録していたかもしれない門田だが、「たまたまよく打てただけ。こういうことも、たまにはあるということ。」といってただ笑うだけであった。
7月の門田の打撃成績は、80打数27安打.338。ヒットの半分以上がホームランだった。
この年、門田は背番号と同じ44本のホームランを放ち、初のホームラン王に輝くとともにMIP賞、ベストナインを受賞している。
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不惑の最強打者・40歳本塁打世界記録 昭和58年、門田は背番号を「44」から「60」に変更する。前人未踏の年間60本塁打を達成したいというホームランに頑固にこだわり続けるアーチストとしての思いをこめたものであった。
その58年には、40本塁打をマークしたものの、翌年以降30本、23本、25本とアキレス腱の痛みをはじめ満身創痍のなかで苦しみつづけた。
永年パリーグの看板打者としてしのぎを削ってきた加藤英司が南海に入団した昭和62年には、両ベテランがチームをぐいぐい引っ張り躍進の原動力に。痛む足を押してレフトの守備位置にもついた。
そして、8月26日には、地元の大阪球場で史上24人目の2000本安打を達成。満員のファンの胸に熱い感動を刻み込んだ。さらに、2000試合出場、3500塁打、300二塁打、1000得点も達成。
最終的には、31本塁打、打率.317を記録した。
そして南海ホークス50周年の昭和63年には、門田のバットがさらに火を噴き世間の注目を一身に集めることとなる。
4月22日、”ミスターG”長嶋茂雄の通算本塁打記録444本を抜く。続く6月5日には、”打撃の神様”川上哲治の記録した通算1319打点を超えた。
不惑の年を迎えた門田は、黙々と練習に打ち込み、豪快なアーチを放ちつづけた。
8月19日の日本ハム戦の4回津野のフォークボールを右中間へ30号ホームラン。王貞治が持っていた40歳の最多本塁打記録に並ぶと、27日近鉄戦で31号を放ち、ついに王を超えた。
門田は、その後もボールをバットで叩き割るような打法でファンを魅了。
9月8日の近鉄戦では、35、36号を連発。本拠地・大阪球場での2発に1塁側スタンドは沸きに沸いた。
メジャーリーグの40歳選手の最多本塁打記録は、ダレル・エバンス(タイガース)が記録した34本であったが、それを門田は軽くオーバーしたのである。
この世界記録達成後、門田は「アキレス腱を切ったあと、走れんかったからどうにもならない。ただし、ゆっくり走れる方法がある。それは、一発しかないと思ってホームランを狙って打つようになった。」と語っている。
そんな門田も10月15日の大阪球場最終戦では、「尋常な精神状態ではなかった。」ため、アーチを描くことが出来なかった。
選手生命を奪いかねないアキレス腱切断という逆境が、門田をひとまわりもふたまわりも大きなアーチストへと成長させるきっかけとなったといってよい。
シーズン終盤の球団譲渡という寂しさを振り払うかのように門田は、身がよじれんばかりにバットを振り、そんな頑固なアーチストにファンは拍手を送りつづけた。
この年、44本塁打、125打点で2冠王を獲得、リーグMVPにも輝き、南海ホークスの有終の美を飾った。
球団譲渡というどうしよううもないいきどおりのなかで、黙々とホームランを量産する門田の姿に自分の人生をダブらせた人も多かったのではないだろうか。
大阪人にとって南海ホークスは「浪速のロマン」、そしてホームランにこだわりつづける最後の”野球馬鹿”門田博光は間違いなく「浪速のヒーロー」だったのである。
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