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野村 克也 昭和10年6月29日生 京都府出身
峰山高校−南海ホークス(昭和29年〜52年・うち昭和45年から監督兼務)
通算 試合数2827試合 2813安打 645本塁打 1940打点 .279
三冠王1回、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回、MVP5回
昭和50年、600号本塁打達成後”長嶋、王が太陽に向かって咲くひまわりなら、俺はひっそり野に咲く月見草”という名言を吐いた。
昭和45年から監督兼務(監督、4番、捕手)、昭和48年にはリーグ制覇
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背番号60番でのスタート 昭和28年暮れ、南海ホークスは、宅和元司、戸川一郎、野母得見、皆川睦雄など20人の新入団選手を発表する。その中にテスト入団の野村の名前も含まれていた。月給7千円、契約金なしでのスタートであった。
昭和29年5月31日、パリーグから新たな選手登録が発表された。「背番号60野村克也」、開幕2ヶ月、初めてプロ野球の選手として認知された記念すべき日である。
といっても、1軍には筒井敬三、松井淳がいたため、「カベ」要員としてベンチとブルペンを往復する日か続く。
そんな野村に意外に早くチャンスが回ってくる。6月17日の対西鉄戦の最終回、記念すべき初打席であった
が、「あがってしまってボールが全然みえなかった」ため、三球三振であった。1年目は、結局11打数ノーヒット。勝負に関係ない場面で代打で使われただけでなのにとうとうバットに球が当たらなかった。
シーズンオフには突然、球団からクビを通告されるも、「頼みます。もう1シーズンだけ...」と食い下がり、何とかクビは免れたらしい。2年目のシーズンは、一軍出場なし。
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ハワイキャンプで大きく飛躍 昭和31年年明け早々、2年間つけていた「背番号60」が「19」に変わった。さらにその春、ハワイで行われたキャンプに参加した野村は、天候がすぐれず体調を崩す先輩をしり目に大きく飛躍することとなる。
鶴岡監督は、帰国後羽田空港での記者会見で”キャンプの収穫は何もなかった。ただ一人だけよくなったのがいる。野村や。”と漏らしている。
オープン戦でも着実に力をつけた野村は、3月21日の阪急との開幕戦、8回から出場。この年85盗塁の日本新記録を作ることとなる河野旭輝の走り初めを刺している。
初安打は、開幕から10試合目の近鉄戦、8回先輩松井の代打に出て三遊間を抜いている。プロ通算31打席目であった。さらに4月28日、毎日戦の6回準エースの中川(隆)から逆転3ランの初アーチを放った。
この年、129試合に出場、357打数90安打7本塁打、打率.252の成績を残した。
翌年には、30本でホームラン王を獲得、大打者への階段を着実に上っていくこととなる。
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52本塁打の日本新記録 昭和38年には52本のホームランを打ち、松竹の小鶴誠が昭和25年に記録した51本塁打を破る新記録を達成。
開幕の対近鉄戦で第1号を放って以降、6月に難産の末通算200号のメモリアルアーチを放つと、それ以降も順調に打ち続け、10月16日の西鉄戦で2本のホームランを打ち込んでシーズン52本塁打の日本新記録をつくった。
また、このシーズン135打点を達成し、文句なしの2冠王に輝いている。
しかもこの記録は、重労働のキャッチャーというポジションで150試合全試合、全イニング出場してつくった前例のない大記録であった。
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戦後初の三冠王 昭和40年、野村は阪急のD・スペンサーと打撃3部門で激しく火花を散らした。
球宴終了後、野村が打率.338、22本塁打、62打点に対して、スペンサーが打率.344,25本塁打、51打点であった。
後半戦に入った7月25日、野村が打率でトップに立つと、スペンサーの打率は次第に低下していく。
一方、本塁打王争いは、スペンサーが8月に入ると32号を放ち7本差をつけられたが、9月7日に野村が35号を打ちついにスペンサーを追い抜いた。この後も両者はデッドヒートを繰り広げるが、10月5日スペンサーはバイク事故を起こして2ヶ月重傷を負い、勝負がついた。
ついに野村は、.322で首位打者、42本で本塁打王、110打点で打点王という戦後初の三冠王に輝いたのである。
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青年監督誕生−監督・捕手・4番打者の3足の草鞋− 昭和45年、第8代南海ホークス監督に就任。
その前年、戦後初の最下位に転落した責任をとって退団した飯田監督の後を受けての就任であった。
同年、西鉄には稲尾和久、阪神には村山実(投手兼任)が就任。昭和2ケタ生まれの監督が一気に3人も誕生し、球界に新風を吹き込んだ。
野村は、D・ブレイザーをコーチに迎え、「シンキング・ベースボール」を旗印に船出。
1年目は、前年の最下位から2位へと大躍進するも46年は4位、47年は3位に留まった。
そして、川勝オーナーの提唱によりパリーグの人気挽回策として2シーズン制が導入された昭和48年の前期、38勝26敗1分勝率.594で優勝。後期に優勝した阪急と日本シリーズ出場をかけたプレーオフが行われた。
2勝2敗のタイで迎えた第5戦、薄暮の西宮球場で行われた大一番は、9回表スミス、広瀬の連続ホームランで均衡を破り、2−1で阪急を制し、7年ぶりのリーグ優勝に輝いた。
今や、名監督の1人となった野村監督であるが、福岡ダイエーホークスが初優勝した際にコメントを求められ”この昭和48年の優勝が一番うれしかった”と語っている。
日本シリーズでは、初戦を飾ったものの1勝4敗で巨人のV9を許すこととなった。
昭和50年のシーズンオフ、阪神タイガースとの間で江本孟紀と江夏豊を軸にした大型トレードを実現させ、昭和48年以来の優勝を夢見た。
しかしながら、江夏の左腕に往年の輝きはなく、そのうえ野村監督までもが近鉄戦で左手薬指を骨折、阪急の前・後期完全優勝を許してしまった。
捲土重来を期した昭和52年には、広島カープから金城基泰投手、ホプキンスを獲得し、打倒阪を目指した。前期は、開幕ダッシュが成功したものの最終的には阪急の底力をみせつけられ、あと一歩のところで優勝を逃した。
後期は、そのショックからか、開幕からつまづきロッテに優勝をさらわれ3位に終わることとなるが、このシーズンの終了まで指揮を執ることを許されず、解任という不本意な形で24年間に及ぶ南海ホークスでの生活に別れを告げることとなった。 |