グラウンドには銭が落ちている〜名将・鶴岡一人〜
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鶴岡 一人 大正5年7月27日生 山口県出身(広島県呉市育ち) 広島商業高校−法政大学−南海ホークス(昭和14年〜43年,うち15〜20年まで応召) 昭和21年から南海ホークス監督(27年までプレーイングマネージャー) 選手時代 754試合 790安打 61本塁打 467打点 打率.295 監督時代 2994試合 1773勝1140敗81分 勝率.609 リーグ優勝11回、日本シリーズ制覇2回 昭和34年には、宿敵・巨人を4連勝で降し、悲願の御堂筋パレードを実現 平成12年3月7日に逝去 |
| ルーキーで主将・輝かしいデビュー 南海ホークスの球団史は、鶴岡の存在抜きに語ることはできない。 「南海を語ることは鶴岡を語ることであり、鶴岡を語ることは南海を語ることである。」といわれる。 戦後、南海ホークスの黄金時代を築き、三原脩、水原茂とともに「3大監督」といわれた鶴岡は、昭和14年3月、法政大学卒業と同時に南海と契約。 入団と同時に主将。3塁手で3番打者の鶴岡は、4月23日、名古屋戦の6回、第3打席繁里栄投手から初ホームラン。この年、10本のホームランを記録してホームラン王に輝くという輝かしいデビューを飾った。 しかし南海軍に初のタイトルをもたらした鶴岡は、翌15年2月1日陸軍に入隊。復員は戦後の20年9月5日であったため、戦前のプレーはルーキーイヤーの14年のシーズンだけであった。 |
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南海一筋・プロ野球をこよなく愛した偉大な野球人 終戦直後の21年、プロ野球の再開とともにプレーイングマネージャーとして復帰するや、選手としては21、23、26年には最高殊勲選手を受賞する大活躍。 監督としては、以降23年間にわたり心血を注ぎ南海の黄金時代を築いた。物資不足の終戦直後、中モズの合宿所近くの敷地に選手とともにイモやカボチャを植え自給自足したというエピソードは有名。 また、ときには家族のことも忘れ自ら選手の獲得に乗り出す情熱家。その面倒見のよい、人情あふれる人柄から”親分”と親しまれ、人は南海ホークスを「鶴岡一家」と呼んだ。 打倒巨人に燃え、機動力野球から400フィート打線と呼ばれる大型打線へとチームを見事に変貌させ、エース杉浦を擁して日本シリーズ初の4連勝で宿敵・巨人を降し、悲願の御堂筋パレードを実現させた昭和34年は、鶴岡監督の野球生活で最も充実した華やかなときであった。 また、それまでカンに頼っていた野球にデータを持ち込み合理的な近代野球をいち早く実践したのも鶴岡監督であった。スカウト制度も然りである。 昭和37年5月には有名な鶴岡語録である”指揮官が悪いと部隊は全滅するのや”という言葉を残して一時ユニフォームを脱いだことがあった。 チームは開幕から連敗続きでホームグランドで12連敗を喫していた。 鶴岡監督の胸中には連敗に次ぐ連敗で、ふがいないチームに喝を入れるためのカンフル剤という意味あいもあったが、心底はそうではなかった。 34年に悲願の日本一になり、36年にも優勝。ややナインにおごりのムードがあった。選手会で決められた門限、その他のルールが次から次へと破られたことに腹に据えかねたことも原因であったらしい。 蔭山代理監督が、この後を引き継いで8月8日に鶴岡監督が正式指揮官として復帰するまでの間34勝18敗という好成績をあげ、最終的に2位の座にこぎつけた。 東京オリンピックが開催された昭和39年の日本シリーズは阪神との間で行われた。マスコミは、「地下鉄シリーズ」「御堂筋シリーズ」と名付た。 このシリーズ、スタンカの大活躍4勝3敗で阪神を降し2度目の日本一に輝いたが、シリーズ終了後、”なんだか兄弟か、親戚とやっているようなもんで、さっぱり気合が入らなんだ”と語っている。 |
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蔭山新監督急死、再度監督に復帰 南海一筋に歩んできた鶴岡監督は、昭和40年の日本シリーズ終了後辞任を表明、後任監督に蔭山ヘッドコーチが就任した。 |
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