南海ホークス栄光の50年

〜The Glorious History of Nankai Hawks〜

 

 

                

  「南海軍」爽やかに登場 〜軍国時代・平和な幕開け〜

 南海ホークスは、日本プロ野球発足2年後の昭和13年3月1日に「南海軍」として誕生。
 関西私鉄球団としては、阪神、阪急に次ぐ3番目の球団であった。
 8月27日から始まった9球団による秋季リーグが、栄光の歴史のスタートとなった。
 最初のメンバーは高須一雄監督以下15人、大物といえば鈴木芳太郎、納谷米吉両投手と外野手の岩本義行ぐらいであった。

 14年には、中百舌鳥球場が完成、チームもまた法政大学で名三塁手としてならした鶴岡一人をはじめ、岡村俊昭、国松松一、平野正太郎、天川清三郎らの加入で強化を図った。鶴岡が、主将兼3塁手でいきなりホームラン王となるも日華事変の勃発により戦力は次々と欠けていった。

 翌15年には、あっという間に10本塁打を打った鶴岡も応召され、チームの弱体化が目立ったが、新しい戦力として明大のエースで左腕投手の清水秀雄、それに藤戸逸郎、川崎徳次、前田貞行らが登場した。
 
 次いで16年には、早慶戦の花形・三谷八郎が監督としてデビュー。投手に甲子園の星・神田武夫が加わり、初めて4位に進出した。
 
 このころ、日本の空を覆った戦雲は、ついに太平洋戦争にまで拡大し、選手の応召が続出。
 17年に入団した中等学校野球の人気投手・別所昭(毅彦)や18年に弱冠20歳で打撃10傑入りした新人・堀井数男の大活躍があったものの、チームを支えることはできなかった。
 
 監督は2代続いた慶応大出身のあと、関西の雄・同大出身の高田勝生が18年に就任。球史に残る「明石  −中京の延長25回戦」に見せた名指揮ぶりが期待されたが、野球用語の英語禁止や戦闘帽姿に意気あがらず、新監督のお手並み拝見とまでには至らなかった。
 
 そして19年、野球選手も軍事生産に動員され、球団は6チーム。南海軍もメンバーわずか14人となり、試合数はわずか11。親会社が戦時統合されて、南海は「近畿日本」と球団名を改称した。
 この年、慶応出身の豪傑・加藤喜作が監督の座に就いたが、大勢いかんともしがたく立役者の岡村が打撃ベストテンの第1位を占めて、ひとり万丈の気を吐いたのがせめてもの救いであった。
   その後戦争はますます苛烈、プロ野球も閉鎖のやむなきに至り、11月13日をもって「一時中止」の声明が出された。

 

   

名指揮で初優勝 〜若鷹生みの親・鶴岡一人〜

 昭和20年8月15日、いまわしい戦争が終結して、荒廃した焦土にプロ野球の明るい灯火が点じられた。
 
 再出発した日本野球連盟のもと、近畿日本から「グレートリング」と改称した南海は、復員した鶴岡の献身的なチームづくりで、昭和21年4月27日から始まった復活第1年目の公式戦に馳せつけ、巨人以下を抑え再出発した日本野球連盟のもと、近畿日本から「グレートリング」と改称した南海は、復員した鶴岡の献身的なチームづくりで、昭和21年4月27日から始まった復活第1年目の公式戦に馳せつけ、巨人以下を抑え球団創設9年目にして念願の初優勝を実現。

 戦後プロ野球最初の覇者となった。
 監督1年生、そして1・3塁手としても陣頭に立ち、最高殊勲選手に選ばれる活躍をした”鶴さん”の面目躍如たるものがあった。
 チームの顔ぶれも清水、別所の看板スターに丸山、長谷川の投手陣。筒井、木村の捕手陣。内野には安井、宮崎、桶川。外野手は田川、河西の俊足コンビに堀井といった名プレーヤーぞろいであった。

 翌22年には、南海は親会社の電鉄が近鉄と分離したのに伴い、5月3日から球団ニックネームも「南海ホークス」と改め、新しくスタートを切った。
 選手には、投手の中谷、岩本、内野陣に飯田、朝井らを参加させたが、清水の抜けた穴はあまりにも大きく、3位転落の憂き目をみた。
 
 だが翌年には、左腕の名投手柚木と、社会人野球で優勝した中原投手、内野陣に九州の赤鬼と呼ばれた強肩の木塚と土屋、外野には強打の笠原を配すなど、見事なチームワークで2度目の優勝を勝ち取った。

 

 

 
 2リーグ制発足 〜執念で日本一の座へ〜

 プロ野球界を二分した画期的な二リーグ制発足初年度の25年、パリーグに参加した南海は、名門球団としての地歩を確実に築いていった。
 この年の9月21日、大阪ミナミのターミナル難波に、ホークスのフランチャイズ大阪球場が華々しくオープンした。
 そして翌26年から27,28年と3年連続優勝して栄光の座を守り、名実ともにパリーグの覇者たる貫禄を示した。

 日本一の王座に賭ける鶴岡南海の意欲は燃えに燃え、この数年間で蔭山の入団をはじめ、24年に結成された「南海ファーム」から岡本、森下、島原、蓑原、黒田らの若鷹を続々と投入。ことに飯田、岡本、木塚、蔭山らの”百万ドル内野陣”は、プロ野球史を飾るにふさわしいゲーム展開で満天下のファンをうならせた。
 
 29年からは、無名の新人宅和、皆川、野村などの後の名選手に続いて、”あなた買います”で話題となった穴吹や俊足の広瀬、「円月打法」で名をあげた杉山をはじめ、大沢、寺田、長谷川ら人気選手が入団。
 さらに早大のエース木村が戦列に加わり、巨人−阪神戦をしのぐ”ゴールデンカード”の南海−西鉄戦では、好プレー、大記録が続出した。
 
 そして、34年、名将鶴岡は5度目の挑戦で巨人を4連勝で降し、悲願の御堂筋パレードを実現させ、大阪中が熱狂の渦に包み込まれた。
 穴吹、森下、広瀬、杉山、長谷川、大沢、野村、岡本、寺田らの強力打線に加え、この時血まめをつぶしながら4連投4連勝し、優勝の原動力となったエース杉浦ピッチングは、神業に等しく”血染めの4連投”は今も伝説として語り継がれ、球史に燦然と輝いている。
   
 さらに東京オリンピックが行われた39年には、阪神を降して2度目の日本一に。この時のマウンドに立ちはだかったのは、あの巨漢スタンカ投手だった。
 
 翌40年、野村が戦後初の三冠王に、このオフに”親分”鶴岡は突然退団を表明、ヘッドコーチ蔭山に監督の座を明渡した。ところが重責を担った就任直後の蔭山新監督はチーム編成のさなか急逝、晴れの舞台を踏むことなく”幻の監督”となってしまった。
 
 この悲運の愛弟子蔭山の弔い合戦に再び鶴岡監督が指揮を執ることとなり、40年と41年、2年連続してリーグ優勝の栄冠を獲得したが、43年を限りについに半生にわたって情熱を傾けた南海のユニフォームを脱ぎ引退、自らの手で”栄光のドラマ”の幕を引いた。
 23年間でリーグ優勝11回、日本一2回を果たした、まさに南海ホークスの大功労者だった。

 

 

  青年監督・野村登場 〜シンキング・ベースボール〜

 その後を継いだのは、”仏の徳さん”といわれた飯田新監督だが、古巣の退潮をせき止めることができず、1年にして去った。

 そこで期待の青年・野村の登場となり、選手兼任で指揮を執った。
 輝かしい個人記録を持つスター選手らしく一気に上位進出に成功。
 2シーズン制が導入された48年には前期優勝。プレーオフでも阪急を破って12回目のリーグ優勝。
 
 知将ブレイザーをヘッドコーチに据え、「シンキングベースボール」の浸透を図り、毎年のように優勝戦線で健闘するも、黄金時代を謳歌していた阪急に対して戦力不足は否めず、これが南海最後の優勝となった。

 
 球団初の監督解任劇〜深刻な低迷期、そして球団譲渡〜

 52年秋には、球団始まって以来の解任劇で8年間指揮を振るった野村監督は退陣に追い込まれた。
 公私混同を解任理由とする何とも後味の悪い解任劇だった。

 53年には、前年引退したばかりの広瀬が”泥まみれの野球”に徹することを誓ってグリーン軍団の第9代監督に就任した。
 しかしながら、野村監督の解任騒動でリリーフエース江夏、成長著しい柏原という投打の主軸を失ったことによる戦力低下を短期間で容易に埋め合わせることはできず、 最下位に沈む。
 
 以降、5位と最下位を行ったり来たりする深刻な低迷期が続くこととなる。
 
 広瀬監督が3年間指揮を執ったあと、ブレイザー、穴吹監督が指揮を執り、果敢に戦うも台頭してきた近鉄、西武との戦力の差は大きく、残念ながらAクラスの壁を破ることができなかった。
 
 61年から「エース登板」の期待を担って杉浦監督が就任。前監督のもとで育った若手の成長も加わり、62年は中盤過ぎまで優勝戦線に食い込み翌年度以降の戦いに大いに期待を抱かせた。


 
   

 さらば、南海ホークス 〜行ってまいります〜

 
しかしながら、球団創設50周年の記念イヤーであった63年は、よもやの開幕7連敗というつまずきが最後まで取り戻せず、終盤の球団譲渡騒動の動揺もあって5位に終わる。
 
 結局、南海ホークスを愛してやまなかった川勝傳オーナーの開幕直後の死去と難波再開発に伴う大阪球場移転問題の解決を急ぐ電鉄本社の思惑が相まって、シーズンが終わらないうちにダイエーへの球団譲渡が決まり、栄光の歴史に幕を引く結果となってしまった。
 この年不惑の大打者・門田が40歳でホームラン王、打点王の2冠を獲得、リーグMVPにも輝いたことがせめてもの救いであった。

 あの御堂筋のイチョウが色づいた10月15日、大阪球場最終戦となった「南海−近鉄」戦には、大阪を飛び立とうとする鷹の最後の雄姿を見ようと黄金時代を思い起こさせるほどの多くのファンが球場に押し寄せた。
 また、スタンドには松井捕手、皆川投手、大沢外野手といった往年のホークスを支えた名選手たちも姿を現した。
 こうしたファンの熱い思いが通じたのか、佐々木、岸川ら若鷹の活躍で接戦の末、近鉄を6対4で降し有終の美を飾った。
 試合終了後のセレモニーでは、杉浦監督の「ホークスは不滅です...行ってまいります。」というあいさつに多くのファンはこぼれる涙をぬぐおうともせず、もう見ることのない南海ホークスのホームグラウンドでの雄姿を脳裏に焼き付けるかのようにいつまでもスタンドに立ち尽くし名残を惜しんだ。