仏道の行動指針としての<現実をそのまま素直に頂く>の意味

仏法を学ぶ者の基本姿勢とは、先ず、大自然に生かされて生きている現在の自己(尽十方界真実人体)は全て過去の成果(遺伝・素質及び環境が形成して来た現時点の全人格)であり、現在の自己の在り方以外には実際に有り得ない絶対的な自己(現在の尽十方界(宇宙・大自然)の一様相)であることを自覚し、その現在の自己をそのまま素直に受容、即ち反省はしても劣等感や不平不満或は優越感等抱かず有りの儘の自己を認識し、且つ現在の境遇に順応して生きていく(「現成公案」)ことである。

なお、通常自己が新しい事態に直面すると喜怒哀楽等の興奮にのぼせるが、自己の生命本来のリズムにより必然的に平常底(生命本来の在り方)に収まらずには収まらない事実をよく自覚すべきである。

次に、具体的に自己(尽十方界真実人体)が生きていく際の<現実そのまま素直に頂く>という意味は以下の通りである。

     
  1. 現実とは、現在生起し或は生起しつつあって実際に自己が直面するありとあらゆる事実(尽十方界の現時点の様相)を言う。即ち直接間接に自己に影響を及ぼす可能性があるため、自ら実際に何らかの対応を迫られ得る、自然・物理現象(地震・水害等)、政治的(投票行動等)・経済的(物価変動等)・社会的(秩序・風俗等の変化)事実、或は他者及び自己行為(火災・交通事故等の過失行為等)並びに事実(発病等)、その他あらゆる出来事(「諸法実相」)である。

  2. そのまま素直に頂くとは、上記現実に対する認識並びにそれについての対応即ち決断及び行動等以下の一連の行為を言う。

    1. 先ず、上記現実に直面した場合の自己の認識は、自己の能力・知識・経験・境遇等(全人格)に相応した自己の主観的認識であるが、その時は自己にとってそれ以外の認識は不可能であり、その自己の主観的認識をもって対応する。(現実と自己はその時の尽十方界の様相として一体即ち依正一如である)

      その際、欲見・僻見・偏見自我に基づく認識の偏向(本来「そのまま素直」とは言えない)が存在しても、自分自身に偏向の自覚がない限り、そのまま主観的認識を構成する(悪例:欲と詐欺)。もし偏向に気付けば、正すべきである。

      また一般的には、自己が現実に直面した時点に於いて自己の主観的認識をもって対応(決断・行動)するのが通常であるが、実際の対応迄に時間的余裕がある場合、専門家等他人の意見を参考にすることも有り得る。当然参考にする行為は自己の人格態度(その時の尽十方界真実人体の様相・表情)そのものである。


      なお、『正法眼蔵』「都機」巻は、我々の常識的な判断や物の見方を批判し、真実は直観するものである、即ち例えば「舟行けば岸移る」の例で、舟と岸はその時の尽十方界の様相として一体であり、生のままの感覚(岸移)をそっくりそのまま受け取るべきであり、「認識のための置き換え」は不要であるとされる。つまりそう(岸移の如く)見えるように我々の感覚は働いている(尽十方界真実)。ところが我々は過去の知識・経験等により記憶している概念(岸は動かない)に一度置き換え、納得して自分の理解を作り上げている。

      この巻の主眼は、本来尽十方界真実は人間が理解し納得し得る対象ではないと言うことを教示している。(拙著『正伝の仏法』十二 第二十三「都機」巻(318頁)参照) 

    2. 次に、上記認識に基づき、自己が実際に対応即ち決断し且つ行動する。

      但し、欲見・僻見・偏見等偏向に基づく対応は、自ら気付く限り当然避けるべきである。 なお、場合により、対応には不作為(何も対応しない)も有り得る。

  3. 更に、現実をそのまま素直に頂いた結果、実際社会において生じた評価や効果等が、世俗的に自己に不利なものであっても、全て潔く受け入れる覚悟がなければならない。

  4. ところで、仏法から言えば、上記認識や対応に於いて合格・不合格は無い如何せねば或は如何あらねばならぬことは無い)、つまり如何なる対応をしても本来成仏、即ち大自然に生かされて 生きている事実(尽十方界真実人体)に変わりは無い(例えば犯罪者も大自然に生かされて生きている)。

    言わば、どんな行為も尽十方界(宇宙・大自然)のその時の一様相であり、尽十方界真実人体その時の在り方・表情である。例えば、迷・悟が生命活動(尽十方界真実人体)の表情であり、何れも表情であると言う点で尽十方界真実として変わりがないのと同様である。

    但し、人間社会(自我世界)に於ける評価(成功・失敗等)は別問題である。

    仮に、素直に頂かなかった(自己満足追求等の)場合も、同様に尽十方界のその時の一様相であり、本来成仏(尽十方界真実人体)であることに変わりは無い。

    また当該行為が惹起した実際社会での評価・効果等も同様に別問題である。

     

  5. 最後に、以上如何なる行動をとっても本来成仏ならば、仏道修行など必要無いではないかという 古来天台本覚門に提起された根本的且つ重要な疑問が生じる筈である。

    然し、仏道とは、大自然から授かった自己の生命(本来)を、深信因果不昧因果即ち因果不可避)の道理に従って、欲望満足の追求自我の暴走のため(自我活動は仏の行為とは言えない)に奉仕しないよう努めることである。

    また人間の自我意識に支配されない宇宙・大自然から見れば、人間の自我意識生命活動の全てではないことが明らかであり、大自然本来の在り方即ち無所得・無所悟(ただ生きている在り方)の尽十方界真実の実践仏行=只管打坐)を努力することが、本来の大自然の在り方に忠実な生き方なのである。

    従って仏道は、単に坐禅時のみならず日常生活においても、自我の放棄・超越を修行する坐禅を常に標準として生きることが最上(畢竟帰処)であるとする信仰であり、前記の通り本来だからこそ、仏に相応しい行を只管努めるだけである。

    なお、<現実をそのまま素直に頂く>を坐禅そのものに即して言えば、坐禅中自然に沸々アタマに浮かぶ種々の念(あらゆる現実)は、そのまま素直に頂く(浮かび放しにして取り合わない(不作為))が、その種々の念を殊更浮かばないように努力したり或は追いかける(思考活動)ことは、現実をそのまま素直に頂かないことになる。

    また特殊な心理状態、例えば一般に誤解されているアタマに何も浮かばない所謂「無」の状態や恍惚的な心理状態(幻影)を現出させようとすることも、すべて反自然な自我活動である。肝要なことは、常にアタマのノボセを覚ますことである。

      

 正覚識 2010、10、9
        

<参考>前掲『正伝の仏法』「興正法句詩抄」(438p)「狙い」等参照。

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