子供こどものための 入門にゅうもん 身体からだ坐禅ざぜん

みなさんは、日頃ひごろ自分じぶん()きているということについて、不思議(ふしぎ)(おも)ったことはありませんか。

めているときは、いつも皆さんは「ゲームであそびたい」とか、「携帯けいたいでんしい」などとかんがえてばかりいるのではありませんか。

またよるる時、明日あしたあさ、「めずにんでいたらどうしよう」などと考えたこともないでしょう。

皆さんは、どんな時でも、自分じぶんきているのがあたりまえだとはじめからおもいこんでいるでしょう。


いまから二せんひゃくねんほどむかし、インドのくにまれた釈迦しゃかさまおし(「仏教ぶっきょう」という。)では、皆さんの身体からだ本当ほんとう姿すがたのことを、「ほとけ」とうのです。

そして、病気びょうきときべつとして、普段ふだん自分の身体のことをまった心配しんぱいすることなしに、なんともなく生きていることを「ほとけさましんじる」と言うのです。


ところで、皆さんが昼間ひるまきている時は、皆さんのアタマ(のう)のなかで、「わたし」や「ぼく」が何時いつにか主人公しゅじんこうになって「あれがしい」「こうしたい」と考えはじめています。

しかもそんな時には、全く自分の身体のことなんかにしていないのです。

ただ自分のおもどおりにあし使つかって自分のしたいことをしているのです。

ところが、よるになってつかれて、布団ふとんはいってねむってしまうと、昼間ひるまの「私」や「ぼく」は何処どこかへっています。

そして、皆さんが眠っているあいだも、皆さんの身体のなかはい心臓しんぞうなどは、昼も夜もずっとやすむことなくはたらつづけているのです。

もし、皆さんが宿題しゅくだいをしなかったり、わすれたりするように、はい心臓しんぞうが働かなかったりしたらどうなるでしょう。

本当ほんとう身体からだはありがたいものだと思いませんか。


ところで、皆さんのような子供こどもであっても、「ひとは何のために生きているのだろう」と思うような時がありませんか。

とくに何か自分の思うようにならない時やかなしい時などはそう思う時があるのではありませんか。

だけどそんなことを考えるのは、きっと「私」や「ぼく」などと考える人間にんげんだけなのだろうと思います。

皆さんの周囲しゅうい普通ふつうに見られるすずめねこなどをていたら、雀や猫が、自分のこれまでのことを反省はんせいしたり将来しょうらいどうしようかなどと考えたり、なやんだりすることなど多分たぶんないのではないかとおもいませんか。

よく考えてみたら、きっと彼等かれらは、たまたままれてて、いのちがあるから、ただきているだけなのではないでしょうか。

元々もともとこの地球ちきゅうじょうのありとあらゆるものは、だい自然しぜん環境かんきょうともに、生物せいぶつただきているのであり、生物せいぶつただ存在そんざいしているのです。したがってきている目的もくてき存在そんざいしている意味いみなどというものはありません。

つまり地球ちきゅう勿論もちろん太陽たいようつきふくめたこの宇宙うちゅうだい自然しぜん無限むげん活動かつどうが、ありとあらゆるものをかし、存在そんざいさせているのです。

ところが、皆さんが普通ふつうに考えるような私の目的やぼくの目的というようなものは、この宇宙うちゅうだい自然しぜんにはありません。

人間にんげん目的もくてき理想りそう理屈りくつというようなものは、人間にんげんのうはたらきによってまれる人間特有とくゆうのものなのです。

そのため人間はなんでも自分中心ちゅうしんにものを考えないとすまないくせがあって、まるで宇宙・大自然にも人間とおなじような目的や意味いみがあるかのように錯覚さっかくするのです。

そして人間自身じしんきていることについてもなにか目的や意味いみがあると思ってしまうのです。


さて、さきにおはなししたように、皆さんはものごころついたころから、あれがしい、これはきらいだと、いつも自分のきなことばかりいかけてたでしょう。

そして自分のおもどおりになった場合ばあいよろこび、思い通りにいかなかった時はかなしんだりしてたのです。

しかしこのような「私」や「ぼく」は、皆さんの身体からだ一部いちぶであるのうはたらいて、自然しぜんかんでるものであって、昼間ひるま皆さんがきているあいだだけの姿すがたなのです。

たとえば空気くうきみず勿論もちろん、そのほか大自然のあらゆるもののおかげで皆さんの身体からだきているのですが、はい心臓しんぞうはたらいている身体からだ生命せいめいそのものと、私やぼくがよろこんだりかなしんだりしていることとは直接ちょくせつ関係かんけいいのです。


そのような皆さんのよろこびやかなしみと身体の生命せいめいとの関係かんけいは、「かわなが」と「川のなみ」との関係にたとえてみるとよくわかります。

つまり心臓しんぞうはいなどの「身体の生命せいめいはたらき」を「川の流れ」とすれば、私やぼくの「こころ」であるよろこびやかなしみは「川の波」のようなものなのです。

かぜいてると、「波」はおおきくなったり、さかいたりしますが、風がめば、川の水面すいめんおだやかになり波がたなくなります。

川の水面はかぜなど そと環境かんきょう変化へんか条件じょうけんによって色々いろいろ表情ひょうじょうかべますが、「川の流れ」そのものはえずながつづけていることにわりがありません。

ちょうど人間の「身体の生命」と「こころ」の関係かんけいおなじで、自分の思い通りにいった場合ばあいよろこんだり、そうでない場合はかなしんだり、その時々ときどきの自分の周囲しゅういの人や環境かんきょうによって自分のこころは川のなみのようにしょっちゅう変わりますが、「身体の生命せいめい」そのものは、「こころ」の変化へんかとは関係かんけいなくつね活動かつどうを続けています。

だから皆さんがどんなに喜んだり悲しんだりしても、時間じかんてばかならもともどってこころは平静へいせいになります。それは、皆さんの身体が大自然に生かされていることの証拠しょうこなのです。


つぎに、これまでおはなししたことと坐禅ざぜんの関係をお話しますと、坐禅のかたちは、あしを組んで背筋せすじばして、坐蒲ざふうえ姿勢しせいただしてだまってすわり、自分じぶん勝手かってをいたしませんという姿勢しせいなのです。

そしてだまってすわっていると、自然しぜんにアタマのなかに、たとえば「おなかいたな、パンがべたいな」などといろんなことがかんできたりします。

だけど浮かんでくるのは皆さんがきている証拠しょうこであってべつ問題もんだいはありません。

たとえば、皆さんがあさめた時、なんにも浮かんでこなかったら大変たいへんです。朝ごはんべることも、学校がっこうくことも浮かばなかったらこまるでしょう。

しかし、坐禅をしている場合ばあいは、浮かんできたことについて、あれこれかんがはじめると、もうただしい坐禅ざぜんではなくなります。

それはたんかんがごとをしているだけになってしまいます。

坐禅の場合は、なにかがアタマにうかかんでたら、かさねてんでいる両手りょうて親指おやゆびかたちをくずさないようにをつけるとともに、背筋せすじばして姿勢しせいただし、前方ぜんぽうかべ自然しぜんていれば、浮かんできたことがふっとえます。

ところがすぐにまたなにかがアタマに浮かんできます。

やはりおなじように姿勢をくずさず、組んだ手のかたちもくずれないように気をつけていれば、またふっと消えます。

このように坐禅をしている間中あいだじゅうずっと同じことをくりかえ努力どりょくするのです。

それではなぜこのような坐禅ざぜんをするのかとえば、元々もともと皆さんの身体からだだい自然しぜんにただかされてきているのだという事実じじつがあります。そこで、まずその事実を素直すなおにいただくという姿勢しせい坐禅なのです。

そして実際じっさいに坐禅をしてみてはじめて、日頃ひごろの皆さんのくせである「私」や「ぼく」が活動かつどうはじめるときのアタマのはたらきがよくわかります。

しまいに、これまでお話したことをまとめますと、日頃ひごろ皆さん自身じしんがわがまま勝手かって出来できるのも、皆さんの身体からだやすむことなくはたらつづけてくれているおかげなのです。

元々もともと大自然に生かされて生きている本当ほんとう身体からだというものは、皆さんのアタマの中で「私」や「ぼく」が活動かつどうはじめていない状態じょうたいうのです。

そこで、本当ほんとうの身体の状態じょうたいたも努力どりょくをする姿すがたが坐禅なのです。

したがって、皆さんが自分の身体にたいして、日頃のおかげ感謝かんしゃする唯一ゆいつ方法ほうほうは、たとえみじか時間じかんであっても、坐禅をすることによって、皆さんの身体からだを本当の自然の姿すがたにおかえしすることなのです。そしてこの身体からだ本当ほんとう姿すがたこそ「ほとけ」とうのです。

以上いじょう、身体と坐禅について簡単かんたんにお話をいたしましたが、実際じっさいに坐禅をしていると、足がいたくなります。

その時は足をえたり、やすめたりして、ふたたつづければよいのです。



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